【百八十三】本末制度 興正寺と西本願寺の対立の原因

2019.08.27

 江戸幕府は強大な力をもった政権です。江戸幕府は各地の藩や朝廷に強い支配を及ぼしますが、仏教の教団にも統制を加えています。幕府の仏教の教団に対する統制は宗派を単位に宗派ごとに加えられました。

 

 幕府は仏教寺院を規制するものとして、寺院法度といわれるものを発しています。寺院法度は高野山、比叡山、興福寺、智積院、妙心寺、大徳寺といった寺や、曹洞宗、関東天台宗、修験道、浄土宗といった宗派に対し発せられます。宗派内の本寺となる寺や各宗派に対し発せられているのです。寺院法度は、まず慶長六年(一六〇一)に高野山に下された後、慶長十三年(一六〇八)から元和元年(一六一五)にかけて集中的に下されています。寺院法度はいうなれば宗派内の規程です。宗派内の座次の決め方や、住持となる条件といったことなどが定められています。規程を下し、それに従わせることで規制を加えているのです。寺院法度はいろいろな宗派に発せられていますが、それらは同一の内容のものではありません。宗派内の事情に応じ、個別に定められたものです。幕府は各宗派の状況を調べた上で寺院法度を下しました。

 

 宗派ごとに個別に定められているとはいえ、寺院法度には共通してみられる規定もあります。それは教学についての規定です。寺院法度には共通して、教学の研鑽を奨励する規定が設けられています。学問をつとめない僧侶は寺にいてはならないとか、あることをするにはある期間の修学が必要だとかいった条文がそれぞれの寺院法度にみえています。僧侶は教学の研鑽に専心すべきだとする考えから、幕府はこうした規定を寺院法度に盛り込みました。江戸時代より前の時代には、寺院は荘園経営などの経済活動を行ないましたし、武力を蓄え、武力を行使するということもありました。幕府は寺院をそうした活動に向かわせるのではなく、修学や修行という仏教本来の活動に向かわせようとしたのです。武力などもたず、修学に専心しているのであれば、寺院に対する幕府の支配も容易になります。

 

 これ以外で寺院法度に共通にみられる規定は、宗派内の末寺に対する本寺の権限を強める規定です。寺院法度には、末寺は本寺に逆らってはいけないとか、末寺は本寺の命に従うべきであるといった条文がみられます。本寺が末寺を管轄するようにしているのです。各宗派で本寺が末寺を管轄しているのであるなら、幕府は各宗派の本寺を支配すれば、本寺を介し、宗派内の末寺のすべてに支配を及ぼすことができます。本寺と末寺の縦の関係である本末関係は幕府の諸宗派に対する支配にとって有効なものでした。

 

 幕府は寺院法度を通じ、本寺の権限を強め、本寺が末寺を支配するようにしていきますが、この本寺と末寺の関係は以後の幕府の諸宗支配においても支配の軸となっていきます。寛永九年(一六三二)から寛永十年(一六三三)にかけ、幕府は諸宗の本山に末寺帳を提出させています。どの寺がどの本山の末寺なのかを明確にするためです。本末関係といっても、本末関係のはっきりしない寺は多くありましたし、本末関係ばかりか、どの宗派に属するのかさえ明らかでない寺も少なくありませんでした。幕府はいずれの寺も必ずどこかの宗派に属し、末寺とならなければならいとしました。各宗派の本寺の側も、そうした幕府の方針をうけ、それまで所属の明らかでなかった寺を末寺として取り込んでいきました。こうしてどの寺も必ずどこかの本寺の末寺になるということになりました。幕府は寺が本寺に対し、本寺と末寺の関係を結ぶことを制度化したのです。幕府はそれら本寺、末寺の本末関係で結ばれた宗派組織を、宗派ごとに支配しました。

 

 真宗に対する幕府の支配の方式も諸宗派に対する支配の方式と同様です。幕府は真宗の各本山を介して、その配下の末寺にまで支配を及ぼしました。江戸時代には西本願寺、東本願寺、専修寺、佛光寺、錦織寺などが真宗の本山です。興正寺は本山ではなく、西本願寺の末寺でした。興正寺はもともと本願寺の末寺でしたが、江戸時代となって、末寺であるということの意味が変わります。幕府は本寺が末寺を支配するように推し進めました。本寺の側は幕府の権力を背景に末寺に力を及ぼすことができるのです。反対に、末寺の側が本寺に逆らうなら、それは幕府に対する抵抗ということにもなります。本寺と末寺の立場はまったく違っています。江戸時代、興正寺は西本願寺と対立するようになりますが、その対立はこの本寺と末寺の本末関係が原因となって生じたものなのです。

 

(熊野恒陽記)

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