【百八十四】寺院の増加 農民層が家を興していったことから寺が増えた

2019.08.27

 真宗の寺院の数は、江戸時代の初期から中期にかけ、著しく増加します。真宗の教えはそれ以前の室町時代、戦国時代から国内の各地に広まっており、いろいろな地域に門徒がいましたが、寺号を号した寺というものはそれほど多くはありませんでした。本願寺が大坂にあった時代の本願寺住持である証如上人は『天文日記』という詳細な日記をのこしていますが、『天文日記』に寺号が記されている真宗の寺の数は二百五十九箇寺です。これが本願寺門下の寺院のすべての数というわけではありませんが、これよりはるかに多くの寺があったとも思われません。証如上人は戦国時代の人です。戦国時代にはこれくらいの寺院数だったのです。

 

 此等之寺号ハ、顕如上人御代迄ハ大方今之十箇一也。八九分ハ准如上人御代・・・六十年以来之新寺号也(『法流故実条々秘録』)

 

 寺号を号する寺は顕如上人の代にはいまの十分の一で、八九割は准如上人の代を含めたこの六十年間に寺号を号した新しい寺だとあります。顕如上人は証如上人の息男です。准如上人は顕如上人の息男で、江戸時代初期の人です。そのころに寺が増えたというのです。

 

 西本願寺では准如上人の代から『木仏之留』という記録が書かれていきます。これは末寺に下した木像の本尊の裏書の控えです。准如上人の代のものは慶長二年(一五九七)から元和九年(一六二三)までの分がのこされています。普通、木像の本尊は寺号が許可されるのと同時に安置が許されることから、この記録から寺号の許可の様子が分かります。のこされた分の『木仏之留』には七百四十五箇寺の寺号が記されています。慶長二年から元和九年までの記録といっても、途中、欠落している部分もあり、その分をも含めれば、千箇寺ほどの寺号が記されていたとみられています。

 

 この後の末寺数としては、元禄七年(一六九四)に八千三百五十九箇寺の末寺があったという記録があります(『大谷本願寺通紀』)。現在の西本願寺の末寺数は一万五百箇寺ほどですが、八千三百五十九箇寺なら、現在の末寺数とそれほどの違いはありません。江戸時代の中期には、おおよそ現在のような末寺数となっていたのです。戦国時代の『天文日記』にみえる末寺数は二百五十九箇寺です。この時代にはまだ本願寺は東西の本願寺に分れていません。末寺は江戸時代の初期から中期にかけ増加したということになります。

 

 寺が増えたといっても、この時代に寺が一斉に創建されたということではありません。寺の前身となる道場があって、その道場がこの時代に寺号を号するようになったということです。道場が寺に発展したのです。

 

 江戸時代は農民層が経済的に成長する時代です。幕府は農民に年貢を負担させますが、同時に幕府は年貢の安定した収納をはかるために農民を保護しました。それまでの時代には、農民は土豪などに使役され、家を興し、家族を養うということもできませんでしたが、江戸時代になって、農民は家を興し、家族を養うことができるようになります。江戸時代の初期から中期にかけ、そうした農民の家が広範に成立していきます。農民は家族を養い、その家族が労働力となって田畑を耕しました。農民が家を興し、家として農業を営んでいくということは幕府が望んだことでもありました。

 

 こうして農民の家が成立していくことと対応して、寺が増加していきます。広範に成立した農民の家が檀家となることで、道場は寺に発展していったのです。この時代には真宗に限らず、他の宗派でも寺の建立の増加がみられます。農民をはじめ、商人、職人などの庶民の家が檀家となって寺が建てられたのです。こののち幕府はキリスト教の禁圧ということにともない、すべての人が必ずどこかの寺の檀徒となるようにしていきますが、こうした政策も、すでに庶民の家が檀家として普通に寺と結びついていたことから行なわれたものと考えられています。

 

 真宗の場合、寺となるには本山から寺号と木像の本尊、それに親鸞聖人、七高僧、聖徳太子、本山の前代の住持の御影などを下してもらわなくてはなりません。江戸時代の初期で本山に納める礼金は、寺号が三両、親鸞聖人、七高僧の御影がそれぞれ十両ほどです。このほか、御影などの受け取りのため本山に出向く経費も必要です。合わせるとかなりの高額となります。これらの礼金は檀家が出し合って納められました。檀家にしろ、余裕があったわけではありません。身を削るようにして出し合いました。当時の檀家にとって、寺はそれだけ大切なものだったのです。

 

(熊野恒陽記)

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