【百八十五】興正寺の末寺 その一 山城国の末寺

2019.08.27

 江戸時代の初期には、それまで寺号を持たなかった道場が寺号を称するようになっていきます。このため寺の数がいちじるしく増加します。一方で、この時期、江戸幕府は仏教の諸宗に支配を及ぼすため、宗派内の本末関係を明確にさせていきます。本末関係は幕府の諸宗支配の軸となるものです。幕府は一般の寺はすべてどこかの本寺の末寺とならなければならないとしました。このため増加していった寺もいずれかの寺の末寺となり、本寺と末寺という本末関係に連なることになります。本末関係はそれまでもありましたが、それまでの時代の本末関係はいうなれば私的な関係です。江戸時代の本末関係は幕府が支配の上で必要としたものであり、公的な関係です。同じ本末関係といっても意味が違っています。江戸時代には、幕府は各宗派の本山を統制し、本山にその下の末寺を支配させました。本末関係を通じ縦に支配を及ぼしているのです。おのずから本山の力が強まっていくことになります。

 

 江戸時代の初期には興正寺の門下の道場も寺号を称するようになり、興正寺の末寺の数も増加していきます。江戸時代の興正寺の末寺はおよそ二千箇寺です。

 

 諸国末寺 凡一千九百十余所

 

 これは興正寺の末寺数についての『大谷本願寺通紀』の記述です。およそ千九百十余だとあります。この書には西本願寺の末寺数を八千三百五十九箇寺とする記述もあります。西本願寺の末寺数は興正寺の末寺数をも含むものであり、西本願寺の末寺の四分の一ほどが興正寺の末寺だったということになります。興正寺の末寺はこの後さらに増え、明治九年(一八七六)に興正寺が本願寺派から独立する少し前の記録には、末寺数は二千五百十七箇寺だとされています(『華園家乗』)。興正寺の末寺は時代とともに増えていきましたが、増え方がもっともいちじるしかったは江戸時代の初期から中期にかけてであり、その時期に急激に増加します。

 

 普通、寺号と木像の本尊の安置は同時に許可されますが、西本願寺が下した木像の本尊の裏書の控えである『木仏之留』には江戸時代の初期に多くの興正寺の末寺に木仏の安置が許されていることが記録されており、この時期に寺が増加した様子がうかがわれます。興正寺の末寺は最終的には二千五百箇寺を越えますが、そのうちの多くはこの時期に寺号を号するようになったのです。これらの末寺の所在地は興正寺のある京都をはじめ、畿内から中国、四国、九州、それに東海、北陸に及んでいます。それらの地域では地域ごとにさまざまな変遷を経ながら末寺が増えていきました。末寺の増え方や末寺の分布の仕方は、興正寺の末寺のある地域ごとにそれぞれ特色のあるものとなっています。

 

 興正寺のある京都、および京都のある山城国の地では、興正寺の周辺、それに山城の南部の地域に末寺がありました。興正寺は本願寺が天満から京都に移転したのにともない天満から京都へと移転します。興正寺が移転したことにより、興正寺の末寺頭の端坊、東坊、性応寺も京都に拠点を構えます。端坊と性応寺は七条堀川の興正寺の門前、東坊はそれより北の西本願寺の境内地の東北側にあたる地にありました。この三寺のほか、興正寺が京都に移ったことにより、京都の興正寺の周辺に興正寺の御堂衆の寺も建てられましたし、京都や近郊にあらたに末寺が創建されるということもありました。興正寺の周辺の末寺は興正寺が移転してきたことにより開かれた末寺です。

 

 山城は興正寺の前身の佛光寺、さらにはその佛光寺の前身である山科興正寺のあった地であり、興正寺の教えがもっとも早くに及んだ地です。山城の南部の地域はこの興正寺の前身の佛光寺の時代から多くの門徒がいた地域です。現在の京都市伏見区から南、奈良県に接するまでの地で、特に宇治川や木津川に沿った地域に多くの門徒がいました。もとの佛光寺は蓮教上人が佛光寺を出て、再度、山科に興正寺を興したことによっていまの佛光寺と興正寺とになりますが、この地の久世郡上津屋の光頼寺は蓮教上人に従った者の跡を伝える寺であり、久世郡市田の永福寺も佛光寺の時代に開かれていた寺とみられます。こうしてもとの佛光寺の門徒が多くいたことから、この地域ではその後も興正寺の末寺が増えていきます。興正寺は山科に再興されたのち、大坂へと移転して山科から離れますが、山科の地にも興正寺の末寺はありました。宇治郡山科西野の西宗寺、東野の真光寺といった寺です。西宗寺は蓮如上人に山科本願寺の土地を寄進したという海老名五郎左衛門の跡を伝える寺です。

 

(熊野恒陽記)

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