【百八十六】興正寺の末寺 その二 畿内の末寺
2019.08.27
山城国に隣接する大和国には、大和盆地を南北に走る中街道、東西に走る横大路に沿って興正寺の末寺が分布していました。畿内で興正寺の末寺がもっとも多かったのはこの大和で、およそ二百箇寺の末寺がありました。興正寺の末寺を含めた大和の西本願寺の末寺数はおよそ五百箇寺です。半数近くが興正寺の末寺でした。西本願寺の末寺は興正寺の末寺と同様、中街道、横大路に沿って分布していましたが、それとともに西本願寺の末寺は山間部の吉野にも多くありました。
中街道、横大路は高市郡の八木で交わります。興正寺の末寺はこの周辺の現在の橿原市、大和高田市に多数ありました。この地域には西本願寺の末寺も多かったことから、西本願寺はこの地域で五つの寺を御坊に取り立てています。今井の称念寺、高田の専立寺などで、五箇所御坊と総称されています。五箇所御坊は地域の末寺の取りまとめをしましたが、興正寺と西本願寺が対立するようになると、興正寺の末寺はこの五箇所御坊と対立するようになります。興正寺の末寺では曽我の光専寺、磯野の順照寺、今市の現徳寺などの十六の寺が、興御殿辻本十六ヶ寺と称される組合を作っており、この十六箇寺を中心に興正寺の末寺はことあるごとに五箇所御坊と対立しました。加えて、興正寺もこの地の今井の順明寺、土橋の専念寺を興正寺の御坊として取り立てて、西本願寺に対抗しました。
大和の興正寺の末寺としては、このほかに添下郡郡山に光慶寺がありました。光慶寺は郡山藩と藩内の西本願寺の末寺を取り次ぐ役をしていた寺です。この寺はもとは山城国綴喜郡の岩田にありました。
摂津国には大坂の天満に天満御坊、河辺郡塚口に塚口御坊がありました。天満御坊は京都に移る前の天満興正寺を御坊としたものであり、御坊のなかでも別格に扱われていました。興正寺の御坊のなかの筆頭となるのはこの天満御坊です。天満御坊の近くには天満四箇寺と称される、蓮光寺、浄久寺、浄蓮寺、光明寺の四つの寺があり、御坊の日常の手伝いをしていました。
塚口御坊がある塚口の地は猪名川からさほど離れてはいない地です。この猪名川に沿った地域ははやくから興正寺の教えが伝えられていた地域です。猪名川沿いには上流から、多田の光遍寺、広根の最徳寺、箕輪の超光寺の三つの寺があります。いずれも興正寺の末寺であった寺で、興正寺の前身の佛光寺以来の末寺だとみられます。古くはこの三寺が塚口御坊を護持していたのだといいます。江戸時代には近在の興正寺の末寺、五十三箇寺が塚口御坊の配下におかれました。
摂津国、和泉国にまたがる堺には、万福寺、覚応寺といった寺がありました。万福寺はのちに興正寺の御坊に取り立てられます。興正寺堺御坊といいました。覚応寺は大和に末寺をかかえた寺です。
和泉国には日根郡佐野に西法寺がありました。この西法寺も興正寺の御坊に取り立てられます。こちらは佐野御坊といわれました。佐野は漁業や廻船業が盛んであった地です。人口も多く、和泉では堺に次ぐ大きな町でした。佐野には食野家や唐金家という莫大な財産を有した豪商がいましたが、この二つの家はそろって西法寺を支えました。江戸時代の初期の西法寺の再建には食野家が資金を援助しましたし、寛文十二年(一六七二)には唐金家が梵鐘を寄進しています。
泉州日根郡佐野町興正寺御門跡御坊 寛文十二癸
丑龍集 唐金右衛門
梵鐘には唐金右衛門との銘があります。
河内国には東高野街道に沿って興正寺の末寺が分布していました。河内の北部、中部には交野郡の藤坂の明善寺、津田の尊光寺、私市の無量光寺、讃良郡の野崎の専応寺といった寺がありました。交通の要地ということもあり、興正寺の住持がこの地を通行する際に、津田の尊光寺や野崎の専応寺で休息するといったことや、私市の無量光寺で宿泊し、次いで藤坂の明善寺で宿泊するということがありました。
河内の南部には石川郡に富田林御坊がありました。御坊のある富田林寺内町は江戸時代も商工業関係者が多く住む町場として発展していきます。江戸時代の初期には家が三百軒ほどあり、千人強の人が住んでいました。御坊を開いた証秀上人の忌日は三月十五日ですが、富田林の町では逮夜ということでその前日の三月十四日が町の休日ということになっていました。生活においても御坊は町の中心となっていたといえます。町には御坊の門徒以外の人も大勢住んでいましたが、町の住人はみな御坊を敬っていました。
(熊野恒陽記)