【百八十七】興正寺の末寺 その三 畿内周辺の末寺

2019.08.27

 畿内より北の地域では丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国に興正寺の末寺がありました。

 

 丹波には氷上郡大崎に仏現寺がありました。仏現寺は興正寺の前身である佛光寺以来の末寺とみられる寺です。この仏現寺は享和二年(一八〇二)、仏現寺の末寺であった教覚寺とともに大谷派に転派します。仏現寺の転派に際しては仏現寺に従わない門徒もおり、興正寺はこののこった門徒たちのために仏現寺の近くに光安寺という寺を建立しています。

 

 但馬には出石郡出石に福成寺、城崎郡城崎に光妙寺がありました。福成寺は但馬国内に十一箇寺の末寺と二十一の道場をかかえた寺です。福成寺の末寺はこのほか丹波、因幡などにもありました。福成寺は多くの道場をかかえていましたが、これらの道場は寺へと発展していくような普通にいう道場ではありません。より民家に近い形態のものです。これらの道場は村の有力者などが屋敷内に大きな仏間を設けたり、小さな堂を建てたりして、それを道場としたというものです。個人の屋敷内にありながらも、道場は地域の道場であり、地域の人たちもこの道場に参詣しましました。道場の勤行などは道場主である屋敷の主人が行ないますが、葬式などは上寺の僧侶が行ないました。光妙寺も二十箇寺ほどの末寺をかかえた寺です。光妙寺は正徳三年(一七一三)、寺号を光行寺と改めます。

 

 因幡には邑美郡鳥取に真宗寺がありました。真宗寺は興正寺の末寺ですが、西本願寺の因幡における御坊として扱われた寺です。鳥取御坊といいました。真宗寺では開基は出雲国の出身の者で、山城国の山科の西宗寺に滞在し、その後、因幡に真宗寺を開いたと伝えています。西宗寺も興正寺の末寺です。

 

 伯耆には東伯郡浅津に香宝寺がありました。香宝寺は浅津の集落に門徒がありましたが、この浅津は墓を作らないことで知られた集落です。浅津では人が死ぬと遺体は集落の火葬場で焼かれ、遺骨や灰は近くの小川に流されました。浅津は東郷湖の湖畔の集落であり、小川の水はこの東郷湖にそそぎこみます。遺骨は東郷湖に流されるものとされ、遺骨を拾って、それを墓に納めるということはありませんでした。この香宝寺では江戸時代の後期に本堂を再建しています。香宝寺は再建の費用として千二百両もの多額の金子を借りうけますが、その際、香宝寺は檀家となっているすべての家の家屋を抵当として金子を借りうけました。当然、檀家の同意の上でなされていることであり、檀家がいかに寺を大切にしていたのかを知ることができます。

 

 畿内の西では播磨国、畿内の南では紀伊国に興正寺の末寺がありました。

 播磨には明石郡大窪に光触寺があります。光触寺の近くには光触寺の末寺もあります。光触寺は播磨六坊の一つに数えられることもある寺です。播磨六坊とは蓮如上人の弟子六人が播磨で開いた寺のことを指すといわれていますが、要は播磨での本願寺下の古くからの有力な寺、六箇寺のことです。播磨六坊は記録によって寺が入れ替わっていますが、『英賀御坊来由』という記録では光触寺を六坊の一つとしています。

 

 播磨から西には美作国、備前国、備中国、備後国といった国が続きますが、これらの地域には興正寺の末寺はほとんどなく、備後の西の安芸国とその西に興正寺の末寺が分布しています。

 

 紀伊国では海部郡打越に真光寺、海部郡和歌浦に性応寺がありました。真光寺は和泉、紀伊に四十箇寺ほどの末寺をかかえた寺です。性応寺も紀伊に六十箇寺を越える末寺がありました。性応寺はこのほかにも畿内の各地に多くの末寺をかかえていました。この二つの寺はもともと紀伊にあったのではなく、ともに紀伊へと移ってきた寺です。真光寺は和泉国日根郡嘉祥寺浦にあり、そこから、一旦、海部郡宇須に移り、それから打越へと移ってきました。移ったといっても、嘉祥寺浦の寺はそのままのこされており、いまも嘉祥寺浦にはもとの真光寺があります。性応寺は堺にあり、そこから和歌浦へと移りました。この二つの寺が紀伊に移ったのは本願寺や興正寺が大坂にあった時代のことです。性応寺は興正寺の末寺頭の一つでもあり、京都の興正寺の門前にも性応寺がありました。性応寺住持は普段は京都に住んでいました。江戸時代の初期、性応寺の住持は西本願寺の定衆に任じられています。定衆はいうなれば西本願寺下の坊主衆の代表で、坊主衆を指揮する役です。性応寺はひろく西本願寺の門下全体のなかにあっても有力な寺でした。

 

(熊野恒陽記)

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