【百八十八】興正寺の末寺 その四 四国、九州の末寺

2019.08.27

 四国では阿波国、讃岐国を中心に興正寺の末寺が分布していました。

 阿波には美馬郡郡里に安楽寺がありました。安楽寺は八十箇寺を越える末寺を有した寺です。安楽寺の末寺は阿波、讃岐に多くありましたが、このほか伊予国、土佐国にもありました。阿波では名東郡徳島の東光寺が安楽寺の末寺でした。東光寺は阿波の触頭(ふれがしら)をつとめた寺です。触頭は本山と地域の末寺の中間にあって、本山の命令を地域の末寺に伝達する寺です。命令の伝達ばかりではなく、地域の寺院の取りまとめもしました。東光寺は本末関係では興正寺の末寺である安楽寺の末寺ですが、触頭ということでは、阿波を代表する寺であり、阿波の西本願寺の末寺の取りまとめをする寺でした。東光寺は江戸時代の初期から、くり返し安楽寺との本末関係の解消をはかろうとしました。讃岐では四十箇寺ほど安楽寺の末寺がありました。讃岐の安楽寺の末寺も安楽寺との本末関係の解消をこころみ、江戸時代の後期までには、大方の寺が安楽寺の下を離れました。当初、安楽寺は讃岐に強い影響をもっていましたが、安楽寺の影響は次第に弱まっていきます。

 

 讃岐には安楽寺だけではなく、常光寺の末寺も多くありました。常光寺は讃岐の三木郡氷上にあります。常光寺には四十箇寺を越える末寺がありました。讃岐にはこのほか端坊の末寺もありました。讃岐は興正寺の末寺が多かった地ですが、それとともに興正寺の末寺同士の結束の強かった地です。結束の中心となったのは香川郡高松の興正寺高松御坊です。讃岐の触頭はこの高松御坊であり、讃岐では西本願寺からの命令の伝達や地域の寺院の取りまとめは高松御坊が行ないました。西本願寺は享保十九年(一七三四)、那珂郡塩屋に塩屋御坊を設けますが、塩屋御坊は高松御坊への対抗上、設けられたものといえます。讃岐の地はそれだけ興正寺の力が強かったのです。

 

 九州では豊前国、豊後国を中心に興正寺の末寺がありました。

 豊後の大分郡高田には専想寺がありました。専想寺は九州に最初に真宗を伝えたとされる天然が開いた寺です。この専想寺は端坊の末寺です。専想寺は豊前、豊後に多くの末寺をかかえていました。専想寺の末寺は本州の周防国、長門国にもあります。専想寺の末寺帳には百箇寺ほどの末寺が記されています。

 

 今ニイタリテハ周防、長門、豊前、豊後ノミワツカニノコリテ、末寺三百箇寺ハカリ随逐セリ、ソノウチ当寺直参ノモノ、タヽ十二箇寺ナリ

 

 専想寺に蔵される由緒書の一節です。末寺帳に記される末寺は百箇寺ほどですが、由緒書では三百箇寺の末寺があるとされています。由緒書では、もともと現在の山口県と九州一帯の真宗の寺院はすべて専想寺の末寺であり、それが減少して三百箇寺になったと主張されています。直参の十二箇寺というのは、専想寺の直末となっている十二箇寺のことです。豊前の下毛郡築地の長久寺、田川郡添田の法光寺、豊後の海部郡小佐井の妙蓮寺、大野郡三重の正龍寺といった寺が直参の寺です。いずれも古くからの専想寺の末寺で、有力な寺です。これらの直末の寺もそれぞれまた末寺を有していました。長久寺や法光寺は周防や長門にも末寺があります。大分郡府内の光西寺は大谷派の寺ですが、もとは専想寺の末寺であった寺です。光西寺も有力な寺で、多くの末寺をかかえていました。専想寺の伝えでは、光西寺は専想寺の末寺であることを嫌い、大谷派に属したとされています。光西寺と専想寺の争いは光西寺が大谷派となったあとも続き、専想寺が設けた浄光寺という寺を、光西寺の側が領主に訴えて破却させるということもありました。

 

 当寺ノ多屋ヲトリタテ、興門尊主ヨリ浄光寺ト寺号ヲマフシ下シ

 

 専想寺の由緒書には、その浄光寺という寺号は興正寺住持から下されたものだと記されています。

 九州では筑前国、筑後国にも興正寺の末寺はありましたが、数はそれほど多くはありませんでした。豊前、豊後のほかでは肥後国に末寺が多くありました。
肥後には飽田郡隈本に延寿寺、同じく隈本に仏厳寺といった寺がありました。隈本はいまの熊本のことです。延寿寺は有力な寺でしたが、のちに大谷派に転派します。延寿寺の転派後、興正寺は託麻郡本山の香福寺という寺を取り立て、この寺を延寿寺の跡を継ぐ寺とします。香福寺は興正寺の兼帯所とされ、興正寺の隈本の御坊として扱われました。

 

(熊野恒陽記)

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