【百八十九】興正寺の末寺 その五 中国地方の末寺
2019.08.27
中国地方では安芸国、周防国、長門国に興正寺の末寺がありました。
安芸には沼田郡広島に仏護寺がありました。仏護寺は東坊の末寺です。仏護寺があるのは広島城の城下の寺町ですが、この寺町には仏護寺とともに仏護寺十二坊と総称される寺もあります。仏護寺十二坊は超専寺、円龍寺、正善坊などの寺で、仏護寺の末寺です。仏護寺はこの十二坊をはじめ多くの末寺をかかえた寺です。仏護寺は安芸の触頭をもつとめており、西本願寺下にあっては安芸でもっとも有力な寺でした。
末寺三百五十六ヶ寺、安芸、備後、周防、石見、伊予五ヶ国に散在す・・・この一宗においては近国に類稀な大寺なり(『知新集』)
仏護寺は安芸、備後、周防、石見、伊予に三百五十箇寺を超える末寺を有する寺であり、真宗では安芸とその近国のうちでも類まれな大きな寺だとあります。
仏護寺はきわめて大きな寺ですが、その下の仏護寺十二坊もそれぞれ有力な寺でした。超専寺には十三箇寺の末寺があり、四千軒を超える檀家がありました。円龍寺にも五十箇寺ほどの末寺と四千六百軒の檀家、正善坊にも四十二箇寺の末寺と千五百軒の檀家がありました。この十二坊は寺町に集められていますが、本来はそれぞれ別の場所にあった寺です。天正十七年(一五八九)、毛利輝元は広島城の築城をはじめますが、その際の城下町の整備にともない仏護寺と十二坊は城下に集められ、その後、慶長十四年(一六〇九)ころ、時の広島藩主福島正則により仏護寺と十二坊は現在地の寺町に、再度、移されます。仏護寺十二坊というのは城下に移転する前から使われていた名称です。これは一年が十二箇月あることから生じた名称で、仏護寺の御堂番などを月ごとに勤めていた寺を十二坊と呼んだものとみられます。要は配下の有力な寺十二箇寺ということです。豊後の専想寺でも直参の十二箇寺といって、有力な末寺十二箇寺を他と区別しています。寺町への移転は十二坊のすべてが移転したのではなく、寺町に境内地をもたずにもとの地にとどまっている寺もありましたし、もとの寺を移転させず寺町に別坊を構えるという寺もありました。十二坊といっても、十二坊は途中で増加し、江戸時代に十二坊といわれていた寺は十四箇寺ありました。移転しなかった寺が一箇寺あることから、寺町には別坊を含め十二坊といわれる寺十三箇寺が仏護寺とともに並んで建っていました。
周防、長門には長門の阿武郡萩に清光寺がありました。周防、長門は長州藩が治めており、萩は長州藩の本拠地です。清光寺は毛利輝元の妻、清光院の菩提所であり、興正寺の住持の一族が住持となった寺です。
防長真宗一統の僧録也(『防長寺社由来』)
長州藩の藩主毛利家と関わりのある寺であることから、清光寺は藩から周防、長州の真宗の僧録に取り立てられていました。僧録とは領内の真宗の寺院や僧の取りまとめをする寺のことです。長州藩は清光寺の権限を保障するため、清光寺にまつわる取り決めを定めています。その取り決めとは、領内の真宗寺院は興正寺に与力すること、領内の真宗僧侶が西本願寺に赴く場合はまず清光寺の許可を得、京都でも最初に興正寺に行くこと、他国の僧が領内に入る場合は、上方の僧なら興正寺、周防、長門の近国の僧なら清光寺の許可を得ること、といったものです。興正寺に与力するというのは興正寺に協力するということです。上寺があっても、それとは関係なく興正寺にも従うということで、こうした協力しながら従う寺のことを与力末寺といいます。周防、長門には興正寺の本来の末寺ではない寺も多くありましたが、それらの寺も興正寺、ひいては清光寺に従ったのです。まさに興正寺、清光寺を優遇し、その権限を強めるものです。長州藩はこうして興正寺を優遇しましたが、藩として西本願寺に属する興正寺を優遇したため、長州藩の領内には東本願寺に属する寺は一箇寺もありませんでした。
本来の本末関係でいうなら、周防、長門には端坊の末寺が多く、その以外には周防に安芸の仏護寺の末寺、長門に豊後の専想寺の末寺がありました。端坊は京都の端坊のほか周防の吉敷郡山口と長門の萩に別坊を構えており、この地域に強い力をもっていました。
安芸と周防の北は石見国ですが、石見にも興正寺の末寺がありました。石見には端坊と仏護寺の末寺が多くありました。このほか鹿足郡中小屋には安楽寺という寺がありました。この寺は江戸時代の後期に興正寺の御坊に取り立てられた寺です。
(熊野恒陽記)