【百九十】興正寺の末寺 その六 近江、北陸の末寺

2019.08.27

 畿内より東の地域では、近江国と越前国、越中国に興正寺の末寺が分布していました。

 

 近江には栗太郡渋川に興正寺の渋川御坊がありました。渋川御坊は、いまは光明寺となっています。光明寺の寺号は、本来は渋川御坊の留守居の寺号です。光明寺は江戸時代を通し、渋川御坊の留守居をつとめていました。摂津の天満御坊の日常の法務を手伝っていた天満四箇寺の一つに光明寺という寺がありますが、この光明寺も渋川御坊の留守居の光明寺から分かれた寺です。近江では蒲生郡上田の正円寺ものちに御坊に取り立てられます。このほか近江には東坊の末寺もありました。東坊の末寺があったのは現在の長浜市周辺の地です。東坊はもともと現在の長浜市となる坂田郡今浜にあった寺です。周辺には古くから末寺がありました。この地域の東坊の末寺には、東本願寺の建立後、大谷派になる寺があるものの、そのまま東坊の末寺にとどまっている寺もありました。

 

 越前には江戸時代の中期におよそ三十箇寺の興正寺の末寺がありました。越前の末寺には当初からの興正寺の末寺ではなく、途中から興正寺の末寺となったという寺が多くあります。越前の足羽郡大町にはかつて専修寺という寺があましたが、その寺の末寺が興正寺の末寺となりました。この大町の専修寺は如道が開いた寺です。如道は福井県の山元派証誠寺、誠照寺派誠照寺、三門徒派専照寺の共通の祖とされる人物です。専修寺から分かれた寺が証誠寺であり、証誠寺から分かれた寺が誠照寺です。専照寺もまた専修寺から分かれた寺です。専修寺はいうなればこの三寺の本寺にあたる寺です。証誠寺など三寺は本願寺の教団に参入しませんでしたが、専修寺の方は蓮如上人の時代に本願寺の教団に参入します。専修寺には本願寺の住持一族に連なる者が入り、本願寺の一家衆寺院となります。専修寺は有力な寺でしたが、その後の天正三年(一五七五)、住持が越前での一向一揆の戦いで戦死します。住持が死亡し、後継者もいなかったことから、専修寺は滅んだものとされ、専修寺の末寺や門徒は興正寺に預けられます。顕尊上人の時代のことです。興正寺と専修寺はもともと関係が深く、専修寺の門徒が興正寺に託されるのも理由のないことではありませんでした。

 

 こうして専修寺の末寺は興正寺の末寺となりましたが、それから数年ののち、専修寺の住持の血を継ぐ者が専修寺の後継者として名のり出ます。専修寺の後継者は、一向一揆の戦いと、その後の混乱を避けるため隠れて生活していました。本願寺をはじめ周囲は皆、専修寺の住持の一族は滅んだものと思っていましたが、後継者がいたのです。本願寺の顕如上人はこの後継者を取り立て、勝授寺の寺号を与えました。後継者は大町の専修寺とは別の場所に勝授寺を建立します。勝授寺は、その後も高い寺格を与えられて優遇されました。

 

 勝授寺が専修寺の跡を継ぐ寺だということから、勝授寺は興正寺に対し、預けていた門徒の返還を求めます。興正寺も一応はこれに同意します。しかし、興正寺は実際には門徒を返さず、もとの専修寺の末寺、門徒はそのまま興正寺の末寺、門徒になっていきます。

 

 専修寺の末寺から興正寺の末寺になったのは、足羽郡生部の瑞応寺、吉田郡寮の勝縁寺、大野郡大野の誓念寺、大野郡中野の光明寺などの寺です。現在の興正寺穴馬別院の門徒団のもととなった興正寺の穴馬門徒も、もとはこの専修寺の門徒だったものです。

 

 勝授寺は建立されたものの、本来の大町の地の専修寺は再興されず、廃絶します。専修寺の跡地には、その後、正覚寺という寺が建立されます。正覚寺は興正寺の末寺として建立され、興正寺の御坊のように扱われました。如道の旧跡ということで、江戸時代、三門徒派専照寺はこの正覚寺に如道の墓を建てています。

 

 越中には射水郡放生津に専念寺、射水郡小杉に西土寺、砺波郡石堤に長光寺などの寺がありました。このうちの専念寺はのちに大谷派となります。越中の興正寺の末寺は限られた地に集中的に存在します。末寺があったのは富山湾に面した放生津を中心とした地域です。現在の新湊市、高岡市にあたる地です。越中には二十箇寺ほどの興正寺の末寺がありましたが、その二十箇寺ほどの寺がこの地域にありました。

 

 放生津は港町であり、日本海をめぐる海上交通の拠点となった地です。放生津の近くには下条川、和田川、小谷部川が流れ、これらの川の河川交通が放生津と後背地とを結んでいましたが、興正寺の末寺もこれらの川に沿うように分布しています。

 

(熊野恒陽記)

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