【百九十一】興正寺の末寺 その七 伊勢国の末寺

2019.08.27

 畿内より東の地域では、近江国の東南の伊勢国にも興正寺の末寺がありました。

 

 伊勢には桑名郡桑名に法盛寺がありました。法盛寺は古くから多くの末寺をかかえていた寺です。伊勢に興正寺の末寺は百箇寺ほどありましたが、その大半は法盛寺の末寺です。法盛寺の末寺は法盛寺のある桑名を中心におもに伊勢の北部にありました。

 

 この法盛寺には西本願寺の准如上人の孫にあたる寂然が入寺しています。准如上人は本願寺が東西に分かれた際の西本願寺の住持です。准如上人の三男は本浄寺昭円といいますが、その昭円の長男が寂然です。この寂然は准如上人の孫ということで、西本願寺から重んじられます。寂然ののちはその息男の寂静が法盛寺を継ぎますが、この寂静は、江戸時代中期、西本願寺の鎰役に任じられます。鎰役は西本願寺の御影堂に安置されている親鸞聖人の御影の厨子の鎰の開け閉めをつかさどる役です。厨子の開閉だけではなく、各種の法要で住持の補佐をつとめたりもします。本願寺では住持の一族がこの役をつとめてきました。この鎰役に任じられたのに加え、寂静は巡讃をも許されています。巡讃は西本願寺での勤行で住持とともに順番に和讃の句頭を独唱することです。巡讃は住持の一族のなかでも限られた者にしか許されませんでした。法盛寺は興正寺の末寺ではありましたが、本願寺の住持の一族が入寺したことで西本願寺下での格を高めていきました。

 

 法盛寺のあった桑名には西本願寺下の有力な寺として願証寺がありました。桑名願証寺はかつて桑名郡長島にあった長島願証寺の跡を継ぐ寺です。長島願証寺は戦国時代に伊勢、美濃、尾張の三国の本願寺の末寺を治めていた寺ですが、織田信長と本願寺が争った際、信長により滅ぼされます。その後、願証寺は復興され、江戸時代の初期に桑名に願証寺が建てられます。桑名に再建された願証寺は特別に扱われた寺でしたが、法盛寺が格を高めていった時期に、突如、高田派に転派します。願証寺が転派した理由ははっきりしませんが、法盛寺が格を高めたことに対する反発もあったのだと思われます。願証寺が転派したことから、伊勢での法盛寺の力はより強まります。江戸時代の後期には法盛寺は伊勢全体の触頭になっています。

 

 法盛寺以外の興正寺の末寺では三重郡小杉に持光寺がありました。持光寺は員弁郡丹生川に通寺があり、丹生川にも持光寺があります。この小杉の持光寺も十数箇寺の末寺をもつ寺です。持光寺はもとは尾張の興善寺から分かれた寺です。興善寺は興正寺門下の寺で、五十数箇寺の末寺を有する寺でしたが、本願寺が東西に分かれた際、末寺とともに東本願寺下に属します。その後、興善寺はさらに東本願寺下を離れ西本願寺下に属しますが、末寺は興善寺に従わず、興善寺だけが西本願下に属しました。一旦、東本願寺下に属したことで興正寺と興善寺との関係も薄れ、興善寺は西本願寺の直参寺院として扱われることになります。

 

 興正寺の末寺は畿内とその西の中国、四国、九州の地域、畿内の東には北陸やこの伊勢のある東海の地域に分布していました。それらの末寺が興正寺を支えたのです。興正寺の末寺は多く、その分、興正寺の力も大きなものとなりました。しかし、興正寺の末寺は興正寺下にだけ属したわけではありません。興正寺の末寺は大きく西本願寺下にも属していました。西本願寺の側も興正寺の末寺を西本願寺の末寺として捉えていました。西本願寺は興正寺の末寺への干渉を強め、興正寺の末寺への支配を強化していきます。興正寺にはこれが不満でした。干渉など受けず、興正寺の末寺は興正寺が治めるというのが興正寺の希望です。江戸幕府は仏教諸宗の本山に権力を集中させ、本山が各宗派を支配するようにしていきます。こうした幕府の施策をうけ、西本願寺も派内の支配を強めていきました。

 

 末寺への支配の強化するため、西本願寺は、多くの下寺を有する上寺があるにしても、その下寺は西本願寺が上寺に預けたものだとの主張をするようにもなります。上寺というものは下寺を預かっているだけだというのです。すべの末寺は西本願寺の末寺であり、末寺は上寺があっても、その上寺のさらに上にある西本願寺に服さなくてはならない、というのが西本願寺のいおうとしていることです。興正寺はまさにこの上寺に相当します。西本願寺はすべての末寺を一律に支配しようとしているのであり、興正寺は上寺として下寺を自らの手で治めようとしているのです。興正寺と西本願寺が争うのは当然です。

 

(熊野恒陽記)

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