【百九十二】承応の鬩牆 その一 月感の上洛
2019.08.27
承応二年(一六五三)一月八日、肥後国飽田郡熊本の延寿寺の月感が京都へとやって来ます。月感は若い時から勉学に励んでいた僧侶です。法名は明了で、諱を円海といいます。月感というのはこの明了が号した斎号です。明了と月感では斎号の月感の方が知られており、一般に延寿寺月感と称されています。月感は慶長五年(一六〇〇)の生まれで、上洛した時には五十四歳でした。延寿寺は興正寺の末寺であった寺です。
承応二年の上洛以前、月感は寛永十八年(一六四一)から正保四年(一六四七)までを京都で過ごしていました。月感の四十二歳から四十八歳までのことになります。この間、月感がおもに過ごしたのは臨済宗の建仁寺です。建仁寺の経蔵には高麗版の大蔵経が蔵せられており、月感はこの大蔵経の閲覧につとめていました。大蔵経は建仁寺以外の寺にも蔵せられていましたが、それらには欠落した巻があったり、文に乱れがあったりしました。これに対し、建仁寺の大蔵経は全巻が揃い、文字や文に誤りがないことで有名でした。
部数都一千五百四十二部、巻数六千五百二十四巻、成全蔵・・・今師入是蔵、拝閲全部(『月感大徳年譜伝略』)
建仁寺の大蔵経は、巻数で六千五百二十四巻あり、月感は経蔵に入って、その全部を閲覧したとあります。大蔵経の全巻を閲覧したことは月感の誇りで、みずから自分は大蔵経をすべて読んだと吹聴することもあったようです。月感が大蔵経を読んだことはよく知られており、一切経をみた人といわれることもありました。
月感は建仁寺での大蔵経の閲覧を終え、正保四年、肥後に戻ります。以後、月感は肥後におり、京都に行くことはありませんでしたが、承応元年(一六五二)の十二月に京都に向かうため肥後を出立し、承応二年一月八日、京都へとやって来ます。
月感が京都に来たのには三つの目的があったと伝えられています。本山である西本願寺を見舞うということと、この後に関東にある祖師親鸞聖人の旧跡を巡るということ、それに西本願寺の学寮の能化である西吟が説く教えが聖道門の教えのようだということなので、それを確かめ、もし本当なら西吟をたしなめるということが、その三つの目的です。学寮は西本願寺の僧侶の教育施設であり、能化はその学寮で講義を行なう講師です。講義を受ける受講者は所化といいます。
慶安三年(一六五〇)、月感の居住する肥後では御明講という名の講がとり結ばれています。御明講では本山西本願寺御影堂の親鸞聖人の御影の前の灯明料にあてるということで寸志が集められていました。
仏法相続のため、大講筵を企てたまふ。御明講と号す・・・是ぞこれ聴聞の次で、門下の寸志を集めて、御本寺祖師の灯明料に擬したまふ(『月感大徳年譜伝略』)
月感は上洛に際し、この御明講の懇志を西本願寺に届けています。西本願寺を見舞うというのが上洛の目的の一つであったということは事実のようですが、月感が京都に来たことの一番の目的となったのは、三つの目的のうちの、学寮の能化の西吟をたしなめるということでした。
月感は建仁寺で大蔵経の閲覧につとめていた最中の正保二年(一六四五)の末から正保三年(一六四六)の初めにかけ、京都から、一旦、肥後へと下向しています。この時、月感は西吟に会い、話を交わしました。
路次の次手正月元旦豊前小倉永照寺を訪ひたまふ。別れに臨で法話数刻に及ぶ(『月感大徳年譜伝略』)
能化の西吟は豊前国企救郡小倉の永照寺の住持です。正保二年の正月、豊前に帰っていた西吟に肥後に下向していた月感が会ったのです。この永照寺での面談で月感と西吟は教学の理解をめぐって対立します。月感と西吟では教学の理解に違ったところがありました。月感がそのことを西吟にいったことから二人はいい争いとなり、それを機に二人は不仲になっていきました。
先年於豊前小倉、如此之義、延寿寺永照寺ヘ被申懸、互ニ及諍論、爾来両寺之間、不和成ルニ付(『承応鬩牆記』)
月感は上洛する以前から西吟と対立していました。加えて、月感は肥後に帰ってきた学寮の所化から話を聞き、西吟が自説を曲げず、月感とは違った理解のまま講義を行なっていることを知って、いよいよ西吟への批判を強めていきます。その批判を述べるために上洛したのです。西吟は月感より四歳年下です。月感が上洛した時には西吟は五十歳でした。
(熊野恒陽記)