【百九十三】承応の鬩牆 その二 自性一心

2019.08.27

 肥後の延寿寺の月感は西本願寺の学寮の能化である豊前の永照寺の西吟をたしなめるため、承応二年(一六五三)一月八日、上洛します。月感は京都に来たことを西本願寺に知らせ、一月十一日の朝から西本願寺の御堂の勤行に出仕しました。月感は勤行を大切にした人で、出仕を怠るようなことはありませんでした。

 

 上洛後、月感は、さっそく西吟の言動を調べはじめます。月感の弟子で学寮の所化になっている者がおり、その弟子から西吟の日ごろの講義の内容などを聞いていったのです。弟子の報告は、上洛以前に月感が肥後で聞いていた通りのものでした。西吟はかねて真宗の教えを聖道門の教えと融合させて説いていましたが、いまだに変わることなく、聖道門の教えにもとづいて真宗の教えを説いていました。

 

 学寮所化之中ニ、延寿寺弟子二十人計居申候・・・講釈之旨、委ク物語仕候由ニ候、自性一心、観心所表之沙汰、又ハ学寮ノ制法、位階之品等、見及ヒ聞及フ上ニ付ケ添テ申聞スル(『承応鬩牆記』)

 

 所化のなかに月感の弟子が二十人ばかりいたとあって、その弟子たちが講義の要旨を詳しく語り、自性一心のことなどが報告されたとあります。自性とは衆生が本来的に備えている清浄な性質ということで、仏性とか真如といわれるもののことです。その自性を観じてさとりへと至るというのが聖道門での成仏ですが、西吟は一貫して浄土門でいう成仏もこの聖道門の成仏と同じことなのだと説いていました。聖道門も浄土門も根本は一致するというのが西吟の主張です。そうした理解のもと、西吟は自性一心、観心表事といったような語を用いて真宗の教えを説いていたのです。自性一心などの語は聖堂門のなかでも禅宗で用いられる語です。衆生に清浄な性質である自性が本来的に備わっているというのは、心のなかに阿弥陀如来や浄土があるとする、己心の弥陀、唯心の浄土といわれる理解にも通じる理解です。月感は西吟の説く教えは真宗の教えにそむくものと捉えていました。

 

 学寮の所化のなかに月感の弟子が二十人ばかりおり、その弟子たちから月感は西吟の言動について聞きますが、この二十人という人数は相当に多い人数です。学寮は月感の上洛より十四年前の寛永十六年(一六三九)に設けられます。当初、学寮は西本願寺の境内に建てられます。その時には所化の住む所化寮に三十ほどの部屋があり、その部屋に所化が二人ずつ住んでいました。ここから所化のおおよその員数が類推できます。所化に二十人ほどの弟子がいたとなると、月感の弟子はかなり高い割合でいたことになります。所化だけで二十人もの弟子がいたのなら、所化ではない各地に住む一般僧侶の月感の弟子はきわめて多数に及んでいたことにもなりますが、月感が学僧として名が通っていたからこそ、こうした多くの弟子を擁することになったのだということができます。当初、西本願寺の境内に設けられた学寮はその後、一旦、別の場所に移されたあと、月感の上洛の一年前の承応元年(一六五二)、七条堀川の興正寺の南側の地に移されます。のちに興正寺の境内地が南側に拡張したため、この地は現在は興正寺の境内地になっています。月感が上洛した時、学寮は興正寺のすぐ南側にあったのです。

 

 月感は学僧として重んじられましたが、月感の寺である肥後の延寿寺も有力な寺でした。延寿寺は西本願寺では一家衆寺院として扱われました。一家衆寺院は本来は本願寺の住持の一族の寺のことですが、江戸時代の初期から礼金を納めることで一家衆寺院となることができるようになりました。延寿寺も江戸時代のはやい時期に一家衆寺院になりました。興正寺においても延寿寺は特別に扱われています。興正寺の末寺頭は端坊、東坊、性応寺ですが、延寿寺はこの三寺と同格に扱われています。こうしたこともあって興正寺の准秀上人の三男である圓尊師は月感の養子となり、延寿寺に入寺していました。圓尊師が延寿寺に入ったのは慶安元年(一六四三)、圓尊師が十三歳の時のことです。

 

 此延寿寺ハ、興正寺殿西国中ノ御下ノ中ニテ、大分ノ寺也、加之後住ハ興正寺殿御三男・・・先年養子ニ被申請候(『承応鬩牆記』)

 

 延寿寺は西国の興正寺の末寺のなかにあっても大きな寺院であって、興正寺の住持の三男が養子に迎えられたとあります。延寿寺は地元の肥後に多数の末寺をかかえた寺であり、月感の代の延寿寺の本堂は十三間四面という大きなものでした。

 

(熊野恒陽 記)

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