【百九十四】承応の鬩牆 その三 同門の兄弟弟子の月感と西吟
2019.08.27
月感の上洛から十九日後の承応二年(一六五三)一月二十七日、月感と西吟が顔を合わせます。二人が出会ったのは西本願寺の一家衆の部屋です。二十七日は十一月二十八日に亡くなった親鸞聖人の月命日の逮夜にあたる日です。その逮夜の勤行の前、二人は一家衆が控える部屋で会いました。月感の寺である肥後熊本の延寿寺は西本願寺の一家衆寺院でしたが、西吟の寺である豊前小倉の永照寺も一家衆寺院でした。永照寺は摂津国島下郡溝杭にある仏照寺の末寺だった寺です。仏照寺は九州地方に多くの末寺がありましたが、仏照寺の九州の末寺のなかでも特に有力だったのが永照寺です。永照寺も延寿寺と同様に、江戸時代初期、礼金を納めて一家衆寺院となりました。
西吟と顔を合わせた月感は、一家衆の住持たちが控えているなか、西吟に、いまはどのような書を講読しているのか、と問いかけました。西吟は、いまは何の講読もしていない、と答えました。これに対し、月感は、能化になっていながら講読を怠っているなど、あってはならないことだ、といいます。そして、西吟に向かい、聞くところによると、学寮の講義では、衆生には本来的に清浄な性質が備わっているとかいった聖道門仏教で説くことばかりを説いているようだが、それでは聖道門の教えが主で、真宗の教えが従ということになり、真宗の教えと聖道門の教えが混じりあうことになるので、今後は真宗の教えと聖道門の教えを明確に区別するように、との批判の言辞をあびせました。
永照寺赤面被仕候テ、座中不興ニ成候由ニ候(『承応鬩牆記』)
月感の発言により、西吟は顔を赤らめ、一家衆の住持たちが控えていた部屋の座の雰囲気も興ざめなものとなったとあります。この後、すぐに鐘が鳴り、勤行の始まりの時刻を迎えたので、月感の西吟への批判はこれで終わりとなりました。
月感は西吟の説く教えを批判しますが、もともと月感と西吟は同じ師に学んだ、同門の兄弟弟子でした。二人の師であったのは性応寺の了尊です。性応寺は興正寺の末寺です。了尊は月感より十八歳、西吟よりは二十二歳、年上でした。了尊は寛永十五年(一六三八)に五十七歳で亡くなっています。生前、了尊は西本願寺下の坊主衆の代表である定衆に任じられ、その後、一家衆になっています。それだけ寺が有力であったということですが、了尊は学徳にもすぐれており、成人前の西本願寺の良如上人の学問の指南役をつとめています。古く本願寺では『教行信証』は本願寺での相伝を受けた上で拝読するものとされていましたが、了尊はこの相伝を受けており、了尊が西本願寺の住持の一族に『教行信証』を伝授するということもありました。
西吟は若いころ豊前国下毛郡の中津で了尊の教えを受けました。了尊が中津でしばらく講義をすることがあり、西吟はそれを受講したのです。この講義では受講者が、毎朝、順番で唱導を行ないました。そのうちに次が西吟の番ということになりましたが、西吟はそれまでの生活では学問をすることもなく、唱導などできないので、唱導を行なうことを拒みました。しかし、再三、勧められたため、拒みきれず、代わりに聴講した講義の内容をそのまま述べるということにして了承してもらいました。翌朝、西吟は昨日の講義の内容を語りましたが、それは了尊の講義の内容と同じもので、一言のいい漏らしもないものでした。これにより西吟の名は世に知られるようになり、そして、西吟自身、これを機に学問を志すようになったと伝えられます。
月感と西吟はともに一家衆になるような大きな寺の住持であり、同じ師に学んだ兄弟弟子ですが、二人には大きく異なったところがあります。西吟は学寮の能化であり、月感は能化ではありませんでした。学寮は良如上人の意向を受けて設立されたものであり、良如上人は学寮の運営に力を入れていました。能化は学寮の責任者であり、良如上人も西吟には信頼を置いていました。能化は一般の僧侶に教義を教えましたが、その立場は個人的に僧侶たちに教義を教えていた学僧とは違っています。学寮は一派の本山である西本願寺の教育機関であり、能化の役職は本山により任じられるものです。能化は西本願寺の正式な役職であり、西本願寺から僧侶を教育することを委託されているのです。兄弟弟子であった西吟は西本願寺から、いわば一派の最高の学匠として扱われているのです。月感にはそれが許せませんでした。月感と西吟の対立の根底にはこうした月感の思いが潜んでいました。
(熊野恒陽 記)