【百九十六】承応の鬩牆 その五 訴状の提出

2019.08.27

 月感は西吟の非を訴状に書き、その訴状を西本願寺の良如上人に提出しようとしていました。このことはやがて良如上人の知るところとなり、良如上人の側から月感に訴状を提出するように要望してきました。良如上人が訴状の提出を要望したのは承応二年(一六五三)の二月二十一日のことです。

 良如上人の側が月感に訴状の提出を要望したことには良如上人側の策略がありました。

 

 右ノ訴状・・・御門跡様ヨリ御乞アラハ、定テ延寿寺権威ニ恐レ、臆シ申、此義止ミ可申トノ謀計ニテ、御乞候云々(『承応鬩牆記』)

 

 訴状が提出されるのを待つのではなく、逆に良如上人の側から訴状の提出を求めたなら、月感は良如上人の権威に恐れをなし、気後れして訴状の提出を思いとどまるであろうし、そうすればこの騒ぎもおさまるであろう、との謀計から訴状の提出を求めたとあります。

 

 月感の西吟を批判する言辞は次第に激しいものとなり、世間にも知られるようになったため、西本願寺も月感の対応には苦慮していました。これ以前、西本願寺の家臣が月感に対し、西吟は吟味の上、能化に任じられているのであり、すでに長く能化をつとめているのであるから、そうした人間に非があるはずはないであろうとか、実際に月感が耳が悪く、聴力が万全でなかったことから、西吟の講義の声が聞こえずに誤った理解をしているのではないか、といったことをいい、とにかく西吟とよく話し合うべきで、もしもそれがいやなら、ほかにも学僧はいるのであるから、そうした学僧と話し合って西吟に非があるかをみきわめるべきだということを勧めたことがあります。しかし、この時も月感はまったく同意する様子を示しませんでした。こののち月感は西本願寺の家臣に良如上人に訴状を取り次ぐことを頼み、聞いてくれないなら御堂で、直接、良如上人に訴状を差し出すと述べたともいいます。こうした月感の態度に困りはて、西本願寺側は逆に月感に訴状を提出するように要望したのです。ところが、この策略は完全に裏目に出ます。

 

 延寿寺ハ願フ所ノ幸イト大ニ喜ビ(『承応鬩牆記』)

 

 気後れするどころか、月感は提出しようとしていた訴状を良如上人の側が求めてきたとして、反対に大いに喜んだというのです。月感はあくまで自分の意を貫き通そうとする性質の人で、自分が折れて、相手に譲歩するということはしない人です。たとえ西本願寺の住持に対してであろうと、恐れをなすような人でもありません。良如上人の側の策略は失敗に終わりました。

 

 良如上人が月感に訴状の提出を要望しているということは興正寺にも伝えられました。興正寺の准秀上人は、もともと月感に訴状の提出をやめるように説いていました。むしろ月感が訴状を提出することにもっとも強く反対したのは准秀上人です。訴状が良如上人に提出され、良如上人が目にしたとなると、事は良如上人をも巻き込んだ大事になるので、良如上人が訴状を目にすることがないようにして、良如上人を巻き込まずに配下の者たちで事にあたるべきだ、というのが准秀上人の考えでした。准秀上人は西本願寺の良如上人の家臣たちにもこうした考えを伝え、最後の最後まで良如上人が訴状を目にしないように画策しました。

 

 良如上人が訴状の提出を要望した二月二十一日の翌二十二日の晩、月感は訴状を提出します。これは月感から西本願寺に提出されたのではなく、興正寺を介し、興正寺から西本願寺へ届けるというかたちで提出されました。その際、准秀上人は西本願寺側に、月感は学寮の能化である西吟に非があると主張しているのであり、これは西本願寺の教えということにとっても大きな問題であるので、よくよく吟味して正否を判断してもらいたいということと、月感と西吟とが討論をし、良如上人が両者の正否を判定する場には、この准秀をも同席させてもらい、良如上人とこの准秀が話し合って、准秀の意見をも判断に加味してもらいたいということ、そして、正否の判断に到った経過を門下に対しても示してもらいということを伝えました。

 

 訴状は二十二日に提出されたものの、二十六日となってこの訴状は月感のもとへと返されます。良如上人の体調が悪く、訴状を読めないので返すということでした。しかし、これは表向きの説明というべきです。実際に訴状が提出され、その扱いに困惑したのです。

 

 この後、三月一日となって、再び訴状を提出するよう要求があり、訴状はその日のうちに提出されました。月感の最初の願いは叶ったのです。

 

(熊野恒陽 記)

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