【百九十九】承応の鬩牆 その八 『破邪明証』

2019.08.27

 月感が「七箇条証拠」とともに提出した『破邪明証』には、十三箇条にわたって西吟の非が書き上げられています。『破邪明証』は「三箇条訴状」の内容を敷衍し、より詳細に西吟の非を述べた訴状です。月感は「三箇条訴状」で西吟の思考とともに西吟の行動をも批判していますが、『破邪明証』でも西吟の教学理解をめぐる考えとともに西吟の普段の行ないを批判しています。

 

 西吟の教学理解については、月感は西吟が衆生には清浄な性質である自性が備わっているという考えに立って真宗の教えを理解し、自性ということばかりを説いているということを批判していますが、『破邪明証』でもこの西吟の説く自性ということを中心に批判がくり広げてられています。

 

 夫自性唯心之名字者、聖道之畳言而非於浄教所依用之名言、却而所制之也

 

 自性という語は聖道門の教えで用いられる熟語であって、浄土門の教えでは用いないし、用いることがはばかれる語だとあります。月感はこれに続けて、自性という語を用いないことの証文としていくつかの文を引きますが、その一つとして覚如上人の『改邪鈔』の文を引いています。

 

 不分別浄穢、以穢土称浄土、用凡形定仏体、於浄土一門不覚可有如斯所談、所差別於談己身弥陀、唯心浄土聖道之宗義、何処乎

 

 これは『改邪鈔』のなかの、師を阿弥陀如来のように崇め、師のいる場所を浄土のように見做すという行為に対する批判を述べた篇目にみえる文です。月感は和文を漢文にしたものを引いています。穢土を浄土と称し、凡夫を仏のように崇めることは浄土の教えにはないことだとして、それでは己心の弥陀、唯心の浄土といった聖道門の教えとの違いがないではないか、と書かれています。月感はこの文を引くことで、西吟の説く自性の考えは己心の弥陀、唯心の浄土と同じ考えなのだと述べているのです。

 

 西吟の行ないについては、月感は西吟が勤行をおろそかにしているということを批判していましたが、『破邪明証』ではさらに別の行動に対しても批判を加えています。勤行をおろそかにしているというのは阿弥陀如来や親鸞聖人に対する尊崇の思いがないということですが、月感はまずこの西吟が教えをおろそかにしているということを批判します。

 

 然聞彼所化等之形状、或蹈足於経巻、或以不浄手取聖教、以穢口読之、或践袈裟跑念珠

 

 聞くところによると、西吟の教えを受けている所化は、足で経巻を踏みつけたり、汚れた手で聖教を持ち、穢れた口でそれを読んだり、袈裟を踏み、念珠を蹴ったりしている、とあります。教えを受けている所化がこうした様子である以上、能化も同じことをしているはずだというのです。月感は所化が経巻や袈裟を踏みつけているといっていますが、もとよりこれは月感がそういっているというだけのことです。些細なことをきわめて大げさに述べ立てているように思われます。
月感はこうして西吟が乱れた行ないをしていると批判していますが、一方で月感は西吟が賢善精進の相を示しているともいっています。

 

 学寮では所化を対象に階位を設けていました。これは学問の進度に応じたもので、上から上座、司教、治事、越信、僧使の五つの階位がありました。階位ごとにそれぞれの服装も決まっていました。西吟が定めたものです。月感はこれを外面を飾ったものだといって批判しています。

 

 立所化之位階于五段、制頭巾於三品、定履於四品、衣服無有重々、咸随位級有兌不兌

 

 階位によって頭巾や履物が分かれているが、本来、衣服には軽い重いといった違いなどないといっています。このほか月感は、西吟は講義の際、自分に向かって所化に仏に対する礼法である頭面作礼をさせているということや、御堂に出仕の際、所化が行列を組んで出仕するということ、あるいは食事の際、所化が煩雑な礼を行なっているといったことなどに批判を加えています。それらは威儀を重んじたものだというのです。

 

 於聖道家由稀有也、況於当家乎

 

 威儀を重んじる礼法は聖道門諸宗でも稀なことであり、真宗ではしないことなのだと述べられています。月感は威儀を重んじるのは名聞のためだとみています。

 

 即可謂、此是内穢外浄之下愚也

 

 月感は西吟を内心は穢れているのに外面を清らかに飾った愚かな人間だといっています。

 

(熊野恒陽 記)

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