【二百】承応の鬩牆 その九 『真名答書』、『仮名答書』
2019.08.27
三月八日に西本願寺に提出された月感の『破邪明証』は、三月九日の晩、西吟に渡されます。『破邪明証』が渡される際、西本願寺の家臣は西吟にこの『破邪明証』と、これに先だって提出された「三箇条訴状」に対する返答書を書いて提出するように求めました。この要求に対し、西吟は後代までの亀鑑となるような返答書を書いて提出する、といい放ちました。
こうして月感の批判への返答書として書かれたのが『真名答書』と『仮名答書』です。『真名答書』は『破邪明証』に答えたもので漢字で書かれ、『仮名答書』は「三箇条訴状」に答えたもので仮名で書かれています。西吟はこの『真名答書』と『仮名答書』を三月二十三日に西本願寺に提出しました。
月感の西吟への批判の中心は西吟が自性ということばかりを説いているということにありますが、これに対し、西吟はこの二書で衆生に清浄な性質である自性が備わるとするのは大乗仏教の根本の教理だと主張しています。西吟は大乗仏教では相対的な現象である事と絶対的な真理である理は相即するものと捉えるのだとしています。理即事であり、事即理だというのです。
離事無理、離理無事、即理而事、即事而理、事理渾然、体用互具也矣(『真名答書』)
事を離れて理はなく、理を離れて事もなく、事と理が融け合い、共にあるといっています。衆生も同じで、事である肉体に、理である自性が備わるとするのです。
万法ハ自性ノ所有ナレハ、自性ヲ離テ万法ヲ見ハ、性相各別ニシテ実大乗ノ意ニアラス、若、人自性ナクンハ、虚空ニヒトシ、大乗ノ実義ハ草木スラ成仏ヲユルス、況ヤ人ニヲイテヲヤ(『仮名答書』)
万法は一切のもの、性相の性は理、相は事のことです。一切のものは自性により認識されるものであり、自性を離れて一切のものを見るということは、事である相と理である性が別々になってしまうことで大乗仏教の教理にかなっていないとあります。続けて、人に理である自性がないなら、人といっても実体のないものになるとし、大乗仏教では山川草木悉有仏性というように草木にすら仏性があり成仏するというのに、人に仏性、すなわち自性がないはずはないといっています。人には自性が備わっているというのです。
これとともに西吟は、その自性ということにしても、一般の門徒に向かって説いているわけではなく、講義で所化に説いているだけだと述べています。大乗仏教の根本の教理である自性ということを所化に教えても、何の問題もないではないかというのが西吟の主張です。
西吟は衆生に自性が備わるというのは大乗仏教の根本の教理だとしますが、真宗の教えについてもこの自性ということを前提にした理解をしています。西吟は、衆生が阿弥陀如来の本願をたのんで一心に念仏すれば、衆生に備わる一心自性が他力仏智の一心となり、その他力仏智の一心により浄土に往生し、浄土で法性心をあらわすと説いていました。聖道門仏教では此土で一心自性の理をあらわし成仏するとするが、浄土門仏教では彼土で一心自性の理をあらわし成仏するとするもので、聖道門、浄土門といっても、一心自性の理をあらわし成仏するということは同じであり、根底では一致するというのが西吟の考えです。西吟は一般の人びとはこうした自性といったことなど知らなくとも、ただ本願を信じて念仏するなら、自覚のないうちに自然に救われていくのだといいます。一方で西吟は、一般の人びとにはそうではあっても、僧侶は自身の学問や人を教化するためにこうした自性といったことを知っておかねばならないとしており、そのために所化に自性のことなどを説いているのだといっています。
月感は西吟が自性ということばかりを説いていると批判するほか、西吟が勤行をおろそかにしているということも批判しています。月感は一月八日から二月八日までの間で西吟は一月二十八日と二月八日しか西本願寺の御堂の勤行に出仕していないといっていました。これに対し、西吟は月感がいうほど出仕を怠ってはいないとはいっていますが、自分に至らない点があるのは確かだともいい、非を認めています。
月感は学寮で所化を対象に階位を設けていることも批判しています。階位は西吟が定めたもので、学問の進度に応じて五つの階位がありました。月感はそれを外面を飾るものだといいました。西吟はこれに階位は学業の向上をはかるために設けたものだと答えています。西吟は所化は階位が上がることを目指し学問するので、学業の励みになるといっています。
(熊野恒陽記)