【二百一】承応の鬩牆 その十 月感、西吟の討論は行なわれないことに
2019.08.27
西吟の『真名答書』と『仮名答書』は、三月二十三日、西本願寺に提出されます。『真名答書』、『仮名答書』は西吟への批判を述べた月感の『破邪明証』、「三箇条訴状」に対する返答書です。両書は翌二十四日の朝、家臣により良如上人のもとに届けられました。両書が届けられたことをうけ、良如上人は二十五日の夜、御堂衆の金光寺を呼び寄せました。金光寺に両書を読ませ、良如上人はそれを聞いたのです。金光寺は興正寺の末寺だった寺です。この二十五日を初回とし、都合、三回の回数をかけて両書を読みました。
『真名答書』と『仮名答書』が提出されたことを知った月感は、三月二十六日、二十七日のころから、しきりに西本願寺の家臣たちのもとに両書を読みたいということを伝えてきました。
或時ハ書状、或時ハ使者、或時自身、各ヘ参、度々催促被申候(『承応鬩牆記』)
西本願寺の家臣たちのもとに、ある時は書状を出し、ある時は使者を遣わし、そして、ある時は月感自身が赴いて、何度も両書の閲覧を催促したとあります。一刻もはやく、両書の内容を知りたかったのです。月感は西吟を徹底的に批判しようとしていました。両書での西吟の反論を確認し、それをも徹底的に批判しようと意気込んでいたのです。
『真名答書』と『仮名答書』が提出されたことで、月感の主張と西吟の主張は出揃ったことになりますが、月感にしてみれば、西吟との争論はまだ始まったばかりという感じであったのだと思います。月感はかねて西吟の問題は、月感と西吟が良如上人の前で討論をし、その上で良如上人が両者の正否を判断して解決すべきだと考えていました。月感は、ことにふれ、それを西本願寺の関係者に伝えてもいました。この後、討論が行なわれるなら、両者の主張が提出されただけの状態はまだその前段階ということになります。この月感と西吟が良如上人の前で討論をするということは、月感だけではなく、興正寺の准秀上人の望んだことでもありました。准秀上人は、西吟は能化であり、月感はその西吟に非があると訴えているのであるから、これは西本願寺全体にとっても大きな問題であって、よくよく吟味した上で解決しなければならないと考えていました。問題を吟味するには月感と西吟が直接に討論することが何よりも必要なことです。准秀秀人は最初に月感の「三箇条訴状」が提出される時から、両者が良如上人の前で討論をし、良如上人が両者の正否を判定するということと、その場には准秀上人自身をも立ち会わせてもらいたいということを西本願寺の家臣に申し入れていました。准秀上人は月感の『破邪明証』が提出されたのちにも、再度、西本願寺の家臣に月感と西吟の討論とその場に明如上人とともに准秀上人自身も立ち会わせてもらいたいということを伝えています。
月感や准秀上人はこうして討論ということを考えていましたが、西本願寺の側には月感と西吟に討論をさせるつもりはありませんでした。西本願寺の側は事が大きくなるのを避けようとしていました。月感が西吟の非を訴えた『破邪明証』、「三箇条訴状」と、それに対する西吟の返答書である『真名答書』、『仮名答書』が提出されたことから、それらをもとに判断した裁定書を下して事を終わらせようとしたのです。西本願寺の関係者たちはどの時期に裁定書を下すかで協議を繰り返しました。ちょうど良如上人は『真名答書』、『仮名答書』が提出された三月二十三日から少ししてから江戸に下向することになっていました。江戸幕府の将軍が第三代徳川家光から第四代徳川家綱に代替わりしたことから、新将軍の家綱に拝礼するため江戸に下るのです。関係者はこの江戸下向を利用して裁定書を下すことにしました。江戸への出立の直前に下すのです。関係者たちは、普通に裁定書を渡すと月感はすぐに何かいってくるであろうが、下向して留守にしていれば月感も諦めて何もいってこないであろうと考えました。
裁定書を下すことで終わらせるということは、月感と西吟に討論をさせるという准秀上人の申し入れを受けいれなかったということですが、西本願寺の関係者にはこのほかにも准秀上人をないがしろにした振る舞いがありました。准秀上人は西本願寺の家臣に月感と西吟の討論の場に立ち会いたいとの申し入れをし、家臣がそれを良如上人に伝えましたが、その際、家臣は准秀上人の印象が悪くなるようないい方で良如上人に申し入れを伝えていました。准秀上人は家臣らのこうした対応に強い憤りを感じていました。
(熊野恒陽記)