【二百四】承応の鬩牆 その十三 『再破』

2019.08.27

 月感は承応二年(一六五三)六月中旬、西本願寺に『再派』を提出します。『再破』は月感の批判に答えた西吟の『真名答書』、『仮名答書』に対し、それらへのさらなる批判を述べた書です。『再破』には十八箇条にわたって月感の批判が述べられています。『再破』の各条では、最初に『真名答書』、『仮名答書』に記される西吟の文が引かれます。次いで、それらに対するさらなる批判ということで、再破との二文字が記され、そのあとに月感の批判の言辞が述べられています。

 

一、仮名答書第一自性之段云・・・自性ヲ離テ万法ヲ見ハ、性相格別ニシテ実大乗ノ意ニアラスト
再破、此答、蝙蝠ノ見ナリ・・・大師聖人、コノ真宗ヲ建立シタマフトキ、自性、唯識等ノ一切自力ノ法門ヲ廃捨シテ、本願念仏ノ他力ノ三信ヲ建立シタマヘリ、貧衲、カツテ一代諸教ノ中ニ、自性一心ノ文ナシトイフニハアラス、タヽワカ宗ノ廃立ヲ重ンスルユヘナリ、然ルニカレハ、祖師ノタテタマヘル安心ヲ軽蔑シテ、却テ祖師ノステタマヘル自性一心、唯識観心等ヲ敬愛シ、剰ヘコノ自性ノ一心ヲ以テ、一大事トイヘリ、ムシロ一家ノ外道ニアラスヤ

 

 西吟は『仮名答書』で、自性を離れて一切のものを見るということは、事である相と理である性が別々になってしまうことで大乗仏教の教理にかなっていないといっているが、これは劣った者の考えだとあり、続けて、自性一心だとか唯識観心だとかいったものは親鸞聖人が自力として捨てたものであるのに、その捨てた自性一心を尊んで、逆にその自性一心をもっとも大切なものとするというのでは、真宗のなかにおいては異義になるのではないか、と述べられています。『再破』にはこうした月感の批判の言辞がのべられていますが、反論に対する再反論ということで、各条とも内容はかなり複雑なものとなっています。

 

 『再破』の提出後、月感は数日に一度の割合で、西本願寺の家臣たちに西吟との争論に対する審議を再開するように求めていきました。家臣たちは裁定書を下したことですでに事は解決したものと思っていたため、月感の要求に困惑しました。

 

 月感のこうした行動もあながち不当なものとはいえません。月感は西吟への批判として、西吟は空の理観のことばかりを説いており、そのことは西吟が著した『私観子』という本に書いてあるといっていました。裁定書ではこの『私観子』は西吟の著したものではないとしましたが、それとともに裁定書には『私観子』の作者については江戸から京都に戻ったあとに調査し、判断を下すと書かれていました。月感はこれを根拠に審議の再開を求めたのです。この『私観子』という本は西吟の門弟が書いたもので、その内容も真宗の教義を説くものでもなく、聖道門仏教の教説を学問のための覚え書きとして書いたというものです。そうしたことから西本願寺関係者はこの『私観子』をさして問題にはしませんでしたが、月感はこの『私観子』を問題視し、のちのちまで誰が書いたものであれ、『私観子』の写本があるなら回収して破り捨てるべきだとの主張をしていました。門弟が書いたものにしろ、真宗の教えにそぐわないところがあるのは、師である西吟に誤ったところがあるからだというのが月感の考えです。

 

 西吟との争論の解決方法については、月感は良如上人の前で月感と西吟が、直接、討論をし、良如上人に両者の正否を判断してもらって解決されるべきだと思っていました。これは月感が以前から西本願寺の関係者に伝えていたことでもあります。月感にしてみれば、討論をすることもなく、裁定書だけで事を終わらせることなど、到底、納得のできないことでした。月感は審議の再開を求め、執拗に催促を続けました。

 

 西本願寺の側は月感からの催促に困惑しながらも、当初はそれを適当に受け流していました。しかし、あまりに執拗に催促が続くため、良如上人をはじめ西本願寺の家臣たちも次第に嫌気がさしてきて、ついには月感を憎悪するようになってきました。

 

 御門跡様御機嫌モ不宜、出頭人衆ハ連々延寿寺ヲ被悪立(『承応鬩牆記』)

 

 月感の催促はその後も続きます。そして、西本願寺が催促に応じないことから、月感の口にする言葉は段々と過激なものとなり、度をこしたことすら口にするようになりました。こうなると西本願寺の側ももう黙ってはいられず、十一月の半ば、協議を行ない、月感を処罰することを決定しました。

 

(熊野恒陽 記)

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