【二百五】承応の鬩牆 その十四 月感は処罰を避け、東本願寺寺内に
2019.08.27
西本願寺は承応二年(一六五三)の十一月の半ば、協議を行ない、月感を処罰することを決定しました。月感は西本願寺に西吟との争論の審議を再開するように催促しましたが、それがあまりに執拗であることと、その際、月感が度をこしたことすら口にするようになったことから、月感を処罰することにしたのです。西本願寺は月感と西吟に裁定書を下しています。西本願寺は月感と西吟の争論はそれで解決したものと思っていましたが、月感は西吟に対するさらなる批判を述べた『再破』を提出するとともに争論の審議を再開するように要求してきました。処罰の決定にあたって西本願寺は、争論はあくまで裁定書の下付で解決したものとし、それ以後の月感の審議の再開の要求を本山の決定に従わずになされた反発行為と見做すことで、月感を処罰しようとしたのです。月感は本山に従わず、本山を軽んじているというのが西本願寺の主張です。月感と西吟の争論は月感が西本願寺に西吟の非を訴えて始まったものです。それが逆に訴えた側の月感が処罰されることになったのです。
月感の処罰を決めた西本願寺は、月感の寺である延寿寺が領内にある熊本藩の藩主に、月感を所払いに処するように依頼することも決めました。こうした月感の処罰の話は関係者だけで内密に進められたものでしたが、すぐに月感の知るところとなります。処罰されることを知った月感は、十一月十六日、西本願寺近くの宿所を引き払って、上京に荷物を移しました。
翌十七日の朝、月感は西本願寺の近くへと戻り、西本願寺の家臣の一人に西本願寺に提出するようにといって書状を託します。昼、良如上人の居館に家臣たちが集まった際にその書状をみてみると、そこには自分は西本願寺の門下を離れると書いてありました。職を辞することなどを願い出る文書を暇(いとま)文(ぶみ)といいますが、まさにこれは暇文です。月感の暇文には、自分は西本願寺の教えを大切なものと思っていろいろなことをいってきたのに、西本願寺の側は一向に聞き入れることもなく、これでは教えも乱れたままになるので、門下を離れる、ということが書かれていました。
私事此齢まで奉存候、御開山様の御安心を、今更改て、自性一心の安心を信申候義、難成奉存候
暇文には、自分はこの歳まで親鸞聖人の説いた教えを信じてきたのに、いまさらそれを改め、自性一心の教えを信じることなどできないとあります。自性一心は西吟が強調したことです。西本願寺の教えが西吟が説く教えになってしまっている以上、門下を離れざるをえないというのです。この暇文をみて家臣たちはあわてました。処罰しようにも、処罰する前に門下を離れるというのなら、もう処罰のしようがありません。家臣たちはすぐに月感を探し出すことにしました。
家臣がまず向かったのは臨済宗の東福寺です。月感は東福寺の西堂と親しくしていました。西堂は禅寺の長老のことです。家臣は配下の者を引きつれ東福寺に向かいました。家臣たちは暮れまで東福寺の門前で待ちましたが、月感をみつけることはできませんでした。月感はこの日の朝、東福寺に行ったものの、すでに東福寺をあとにしていました。その後、月感が上京の本阿弥光恩の家にいることが分かり、家臣たちは光恩の家を訪ねました。家臣が月感は家にいるかと問うと、光恩はいることを認めましたが、夜遅いので明日にしてくれといって、月感を家臣には会わせませんでした。本阿弥光恩は月感の妻の父親です。本阿弥の一族は有力な一族で、一族でひろく工芸品の制作に携わっていました。翌十八日の昼前、家臣が光恩のもとを訪れると、光恩は月感は留守だと答えました。家臣は長い間、待っていましたが、月感は帰ってきませんでした。以あとは、何度、家臣が訪れても、光恩は月感はどこに行ったのか分からないというだけでした。しかし、これは嘘です。本当は光恩は月感を匿っていました。
西本願寺は月感の探索にあたって、京都所司代の板倉重宗にも協力を依頼していました。所司代は京都の行政と治安の最高責任者です。板倉重宗が乗り出してきたからには、光恩もいつまでも月感を匿っているわけにはいきません。月感ももうどうしようもなくなり、結局、東本願寺に保護を求めることになりました。十二月四日、月感は東本願寺の寺内に逃げ込みます。西本願寺と東本願寺は激しく対立していました。東本願寺寺内にいるのなら、西本願寺も手出しはできません。板倉重宗も騒ぎが大きくなることを恐れ、それ以上、月感を追うことはありませんでした。
(熊野恒陽 記)