【二百七】承応の鬩牆 その十六 大形末ニ成候

2019.08.27

 准秀上人は承応二年(一六五三)十二月四日、西本願寺の家臣たちを興正寺に呼びよせました。月感のことに関わる西本願寺の対応についての不満を述べるのと、良如上人に提出する口上書を渡すためです。准秀上人との対面後、家臣たちは口上書を預かって興正寺をあとにします。この時にはまだ家臣たちは口上書の文面はみてはいません。こののち家臣たちは口上書に目を通しましたが、その文面に驚きました。

 

 口上書には、月感が良如上人に提出した「三箇条訴状」は良如上人に提出されることのないようにするようにと西本願寺の家臣たちにいってあったにもかかわらず提出されたもので、そうなったのは家臣たちの対応が悪かったからだといったことや、月感と西吟の正否は両者に討論をさせた上で良如上人が判断すべきであり、その場には同席させてもらいたいといってあったのに、そうした意向はまったく聞き入れられなかったといった、西本願寺への不満が書かれていましたが、それとともに、西本願寺の教えは乱れ、もうどうしようもない状態だとの一文が書かれていました。

 

 今時之様子を聞及候ニ、御法流を様々ニ申なし候により、諸人区ニ心得候と見へ申候、兎角御家之御法流、大形末ニ成候かと歎鋪存候

 

 西本願寺の現在の様子は、教えの解釈がさまざまなため、それを聞いた人びとの受け止め方もまちまちになっているようにみえるとあり、続けて、西本願寺の教えもあらかた途絶えようとしており、歎かわしく思っているとあります。教えの解釈がさまざまだというのは、西本願寺には西吟の教えの理解と月感の教えの理解の二通りの理解があり、解釈も分かれているということをいったものです。月感は西吟を聖道門の教えで説かれるようなことを説いているといって批判します。西吟の理解は聖道門の教えにそって真宗の教えを理解するというもので、月感の理解は真宗の教えはあくまで真宗の教えとして理解するというものです。その二通りの解釈があるというのです。西本願寺は月感と西吟の争いに対し、西吟の教学の理解には誤りはないとするとともに、月感の教学の理解にも誤りはないとしました。両者の理解の正否を判断することなく、曖昧なかたちのままで事を終わらせようとしたのですが、こうした曖昧な態度のため、西本願寺では教えの解釈が分かれ、人びとの受け止め方もまちまちになって混乱しているのだと准秀上人は批判しているのです。

 

 准秀上人の批判はこれだけではありません。月感と西吟の二人に対して西本願寺は、月感をとがめ、西吟を擁護しています。西吟は学寮の能化であり、西本願寺は西吟を重んじていました。ここから准秀上人は、西本願寺は西吟の理解の方を正しいとしているのであり、西本願寺は西吟の理解をそのまま西本願寺の教えとして用いているのだとします。一方で准秀上人は月感の側に立っており、月感の理解を正しいものとしています。月感からすれば、西吟の理解は誤りです。准秀上人にしてみても、西本願寺の教えは西吟の理解に依拠した誤った教えということになります。西本願寺は西吟の教えをそのまま用いた誤った教えとなったのです。准秀上人が西本願寺の教えは途絶えようとしているといっているのはまさにこのことです。西本願寺の教えが西吟の説くように聖道門の教えのようなものになったため、本来の教えが途絶えそうになっているといっているのです。准秀上人は西吟の理解に依拠していることを批判しているのです。

 

 准秀上人は教えが途絶えそうになっているということを、口上書に「御家之御法流、大形末ニ成候」と記しています。末になるというのは終わりになるということであり、途絶えそうになっているということです。西本願寺の家臣たちはこの一文に驚きました。教えが途絶えるというのは西本願寺を侮辱する言辞で、口上書を受け取る良如上人を不快にさせるものです。口上書を読んだ家臣たちはすぐに興正寺に引き返すと、准秀上人にこの一文を削除するように依頼しました。しかし、准秀上人はこの依頼を拒みました。家臣たちは何度も准秀上人に削除を頼みましたが、准秀上人は、思うことがあるので口上書をそのまま良如上人に提出するようにといって、ついに依頼を受け入れることはありませんでした。准秀上人の西本願寺に対する不満は強く、固い決意をもって口上書を提出したのです。

 

 家臣たちはやむなく口上書を持って帰りました。

 月感と西吟の争いは、准秀上人と良如上人の争いへと移り変わっていったのです。

 

(熊野恒陽 記)

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