【二百八】承応の鬩牆 その十七 京都興正寺を出て天満御坊へ

2019.08.27

 准秀上人が良如上人に提出するため、承応二年(一六五三)の十二月四日に西本願寺の家臣たちに渡した口上書は西本願寺を激しく批判するものでした。

 

 御家之御法流、大形末ニ成候

 

 口上書には西本願寺の教えは末になり、あらかた途絶えようにとしている、とも書かれていました。家臣たちはこの末になるとの一文を良如上人にみせることはできないとして、准秀上人にこの一文を削除するように依頼しましたが、准秀上人はそれを拒み、なかば強引に家臣たちに口上書を預からせました。准秀上人の西本願寺に対する不満は強く、その思いをどうしても良如上人に伝えたかったのです。

 

 しかし、口上書を預けたものの、家臣たちは良如上人に口上書を届けることはありませんでした。口上書の内容を考慮してのことです。家臣たちは表向きには取り込み中で手が回らないと説明していました。十二月十八日には、准秀上人は興正寺の重臣である下間重玄を介し、書状で西本願寺の家臣たちに口上書への良如上人の返事はどうなっているのかということを質問しました。暗に口上書を届けるよう催促したのです。それにもかかわらず、家臣たちは口上書を届けませんでした。准秀上人は以前から西本願寺の家臣たちを快く思っていませんでしたが、家臣たちのこうした態度により、家臣たちへの不快な思いは、一層、強いものとなっていきました。

 

 口上書は西本願寺への批判を良如上人に向かって述べるもので、准秀上人も覚悟を決めた上で書いたものです。その口上書も西本願寺の家臣たちの手元に留めおかれ、良如上人に届けられることはなかったのです。准秀上人の思いは抑え込まれたかたちになりましたが、准秀上人はそうした状況を打ち破る行動を起こします。十二月二十一日の夜、准秀上人は京都の興正寺を出ていったのです。

 

 夜船ニテ興正寺殿並新門様圓由房、当地被引除、天満ヘ御越候也(『承応鬩牆記』)

 

 准秀上人は、夜、興正寺を出ると船で天満に向かったとあります。興正寺の天満御坊に入ったのです。新門、圓由房も一緒であったとも記されています。新門とはのちに興正寺を継ぐ良尊上人、圓由房とあるのは良尊上人のすぐ下の弟の圓友師のことです。圓友師の下にはさらに弟の圓尊師がおり、この圓尊師が月感の養子となっていました。圓尊師はこの時には熊本の延寿寺に住んでいました。このほか准秀上人の妻である祐秀尼も一緒に天満へと移っています。この祐秀尼は西本願寺の准如上人の娘で、良如上人の姉にあたります。准秀上人は妻子を引き連れ天満へと移ったのです。

 

 准秀上人は京都を出る前日の十二月二十日に西本願寺の朝の勤行に出仕しています。新門の良尊上人もともに出仕しました。二十日には毎年恒例の御堂の煤払いが行なわれました。その日の朝の勤行に出仕したのです。准秀上人は調声をつとめました。准秀上人はすでに京都を去ることを決めており、西本願寺での最後の勤行だとの思いで二十日の朝の勤行に出仕しました。この日の勤行に良如上人が出仕することはありませんでした。

 

 西本願寺の関係者たちは十二月二十二日となって、准秀上人が天満へ移ったということを知ります。二十三日、良如上人は使者を遣わし、准秀上人に京都に戻るよう伝えましたが、准秀上人は使者に対し、強硬な態度で京都に戻る意思のないということを伝えました。准秀上人の強硬な態度に、良如上人の側も強硬な態度で対応します。良如上人は今度は別の使者を遣わし、京都に戻らないのなら、それは本寺である西本願寺に逆らうということなので、興正寺の門下の坊主衆、門徒衆に今後は准秀上人に従わないように誓詞を書かせ誓わせることにすると准秀上人に伝えました。使者が天満御坊でこのことを伝えたのは二十八日のことです。これに対しては、准秀上人も強くいい返しています。

 

 今度ノ段々、御恨ミ山々ニ候、如此御引除候上者、如何様ノ儀ニテモ、二度御帰寺有間敷ト被仰放候(『承応鬩牆記』)

 

 准秀上人は、今度の月感をめぐる騒動で西本願寺への恨みは山のように積もっており、こうして天満へと移ったからには、どんなことがあろうと二度と京都の興正寺に戻ることはない、と使者にいい放ったとあります。西本願寺の月感の扱いや、准秀上人自身への西本願寺の対応、そうしたことへの恨みが山のように准秀上人には積もっていたのです。

 

(熊野恒陽 記)

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