【二百九】承応の鬩牆 その十八 良如上人を揶揄する月感
2019.08.27
准秀上人は承応二年(一六五三)十二月二十三日、京都の興正寺を出て、天満御坊に移ります。この行動に良如上人は、准秀上人に京都に戻ることを求め、戻らないのなら、興正寺の門下の坊主衆、門徒衆に准秀上人に従わないことを誓わせる誓詞を書かせると伝えましたが、准秀上人は良如上人の要求を拒み、二度と京都に戻ることはないといい放ちました。
要求を拒否されたことから、良如上人は坊主衆に誓詞を書かせるために本当に各地に使僧を派遣します。十二月の末には、摂津に光瀬寺、河内、和泉に専修寺、大和に金光寺が派遣され、明けて承応三年(一六五四)の一月の初めには、周防、長門に光慶寺と海雲、讃岐、阿波に光瀬寺と恵照、丹波、但馬に西圓寺と真教寺が派遣されました。いずれも西本願寺の御堂衆で、このうちの光瀬寺、金光寺、光慶寺などは興正寺の末寺でした。この時に提出が求められた誓詞は坊主衆がそれぞれに書いたものではなく、西本願寺があらかじめ雛形を用意し、坊主衆はそこに署名を加えるというものでした。その雛形には、興正寺は本寺である西本願寺に逆らったが、自分たちは本寺の西本願寺に従い、逆らうことはない、といったことが書かれていました。坊主衆はなかば強制的に誓詞に署名を加えさせられましたが、署名を拒否する者もおり、河内、和泉、大和では多くの坊主が署名を拒否しました。准秀上人に従うという坊主も多かったのです。
こうして西本願寺が誓詞を書かせるために使僧を派遣しだしたのとちょうど同じ十二月の末のころ、月感は地元の肥後の坊主たちに書状を送っています。
仍而従御門跡様、池永御下シ、色々裏表ナル儀計御申下候由、邪法御信仰之上、天下之御本寺ノ御門跡不相似大妄語、不及是非儀と存候(『浄土真宗異義相論』)
書状には、西本願寺の門跡である良如上人が肥後に家臣の池永を下し、いろいろと裏表のあるはかりごとをめぐらしていると聞いていると書かれています。月感は承応二年の十一月のなかば、西本願寺から本山への反発行為を行なったとして処罰をうけることになります。以後、月感はそれを避けるために身を隠しますが、その間の十一月二十五日、西本願寺は肥後に家臣の池永庄太夫を派遣しています。これは肥後の熊本藩に月感を所払いにするように依頼するために派遣したものです。書状にある池永を下したというのはこのことをいっています。池永が裏表のあるはかりごとめぐらしたというのは、池永庄太夫の肥後での活動を月感の側から、はかりごとと表現したものです。書状には続けて、その池永を派遣した良如上人について、邪法を信仰し、天下の西本願寺の門跡である立場に不似合いな妄語を口にしているとして、何ともいいようのないことだと述べられています。邪法を信仰しているとは、良如上人が西吟の教説を正しい教えとしているということです。妄語を口にしているというのは、これも月感の側からの見方で、無実のこの自分を悪者にするため出鱈目なことをいっているということをいったものです。月感は良如上人を激しく揶揄していますが、西本願寺の住持をここまで揶揄することはあまり例のないことです。頑固で、自分の邪魔をする者は誰であれ許さないという月感の気質がうかがえます。
月感の書状はこの後もさらに続きます。
邪法ノ善知識ノ流ヲ汲居候ハ、世間之口スギニ而コソ候へと被存、興門様も極月廿一日ニ天満へ御立退被成候・・・当年中ニ院家、御一家衆ハ、過半可被立退との沙汰ニ而候
書状には、西本願寺門下の一般の僧侶が邪法の善知識である良如上人の流れを汲んでいるのも、生活のためにそうしているだけのことであり、興正寺の准秀上人が天満御坊へと退出したので、当年中には西本願寺の院家や一家衆寺院の過半の寺は門下を離れるであろうと述べられています。月感にしてみれば、良如上人は邪法の善知識です。そうした人物に門下の寺が従うはずはないと月感には思われたのでした。
このほか月感は書状で准秀上人からご用を仰せつかったということも述べています。
依興様御用被仰付候而、少仕廻かね候
准秀上人からご用を仰せつかったが、それをするのに手間取っているとあります。月感は西本願寺の探索を避けるために身を隠しますが、その後も准秀上人とは連絡を取り合っていたのであり、こうして准秀上人が用をいいつけることもあったのです。
(熊野恒陽記)