【二百十】承応の鬩牆 その十九 西本願寺の門下を離れるとの主張
2019.08.27
西本願寺は准秀上人が天満御坊に移ったことから、興正寺の門下の坊主衆に准秀上人には従わないとの誓詞を書かせましたが、その一方で西本願寺は准秀上人に京都に戻るようにとの説得も続けています。准秀上人が西本願寺の家臣たちによる説得を強硬な態度で拒否したこともあり、西本願寺は家臣以外の人びとを介して准秀上人への説得を続けました。
まず説得にあたったのは京都の二十八日講、三条十二日講といった講の人びとです。准秀上人が京都を去ってから二十日ほどたった承応三年(一六五四)一月九日、京都の七組の講の代表、合計二十一人が天満御坊を訪れ准秀上人に対面しています。講衆はこの九日は見舞いの言葉を伝えるだけにして、翌十日、あらためて天満御坊を訪れ、准秀上人に対し、京都に戻るよう説得にあたりました。この時には大坂の講衆も加わって一緒に説得にあたっています。准秀上人は訪ねてきた講衆たちを丁重にもてなしましたが、説得には応じませんでした。この後、京都の七組の講衆は、再度、説得にあたるため、一月二十三日夜、京都を出て大坂に向かっています。講衆は数日間、大坂に滞在し、二度にわたり天満御坊で准秀上人の説得にあたりました。この時には大坂の講衆とともに京都の東寺の金勝院という僧侶も説得に加わっています。しかし、この時の説得にも准秀上人が応じることはありませんでした。この後に准秀上人の説得にあたったのは金勝院です。金勝院は二月になってから、二度、大坂に下って説得にあたりました。しかし、それでも准秀上人は説得に応じませんでした。
西本願寺は興正寺の門下の坊主に誓詞を書かせたり、准秀上人に京都に戻るよう説得をしたりしましが、こうしたことをするのも大きな理由があってのことです。准秀上人が天満に移ったあと、准秀上人は興正寺の門下の坊主たちを天満御坊に呼び、京都から天満に移った事情について説明をしています。准秀上人は月感と西吟の争いに関連して、興正寺と西本願寺とでも教義の理解に幾分の違いが生じたことから、天満に移ることになったということを述べるとともに、興正寺としての教義の理解についても述べました。
惣而、興正寺法儀之心得者、親鸞聖人安心之一途すすめ者、蓮如上人之文之ことくの由被申渡候(『浄土真宗異義相論』)
親鸞聖人の勧めた安心というものは、蓮如上人の御文に説かれる通りのものであり、興正寺の教義の理解としても、その親鸞聖人、蓮如上人と継承された通りの教えを継承するのだと述べたとあります。この准秀上人の話を聞いて不審に思った坊主がいました。興正寺が親鸞聖人、蓮如上人と継承された教えを継承するのなら、それと争う西本願寺に継承される教えとは、一体、どのようなものなのかと思ったのです。坊主は不審を晴らすため西本願寺を訪ねました。西本願寺ではこの坊主のいうことをそのまま良如上人に伝えましたが、これを聞いて驚いたのは良如上人です。
扨者、今度之申分難題を申かけ、本寺を可立退との企ニ候哉(『浄土真宗異義相論』)
月感と西吟の争いに関連して、准秀上人は西本願寺にいろいろと難しいことをいってきたが、それもこれもこの西本願寺の門下を離れるためであったのか、と良如上人はいったとあります。良如上人は准秀上人が天満に移ったのは単に西本願寺の近くにいることを嫌って移ったのではなく、門下を離れるために移ったのだと理解したのです。そのため興正寺の門下の坊主衆に准秀上人に従わないとの誓詞を書かせたのであり、准秀上人に京都に戻るように説得を続けたのでした。
良如上人が准秀上人が門下を離れると思ったのは准秀上人が教義について口にしたからです。西本願寺が継承しているのは教えです。教えが継承されているからこそ門下の寺は西本願寺に従っているのです。准秀上人はその教えが西本願寺には正しく継承されていないといっているのです。西本願寺に正しい教えが継承されていないのなら門下の寺が西本願寺に従っている必要はないわけであり、その正しい教えが興正寺に継承されているのなら門下の寺は興正寺に従えばよいということになります。准秀上人の主張は興正寺が末寺ごと西本願寺の門下を離れ、別個の本寺になるというということを表明するものなのです。月感と西吟の争いは准秀上人と良如上人の争いへと進みますが、それがさらに興正寺が西本願寺の門下を離れるということを主張するまでに進んでいったのです。
(熊野恒陽記)