【二百十三】承応の鬩牆 その二十二 准秀上人と月感の連携

2019.09.20

 天満御坊に移り住んだ准秀上人は承応三年(一六五四)の四月中旬以降、本尊や御影を下付するなど、あたかも興正寺が一派の本山であるかのような振る舞いをします。西本願寺は誤った教えを説いており、門下が西本願寺を嫌うので、西本願寺に代わって本尊や御影を下しているのだというのが准秀上人の主張です。西本願寺の教えが誤っているということを根拠に一派の本山のような振る舞いを始めたのです。

 
 准秀上人は西本願寺の教えが誤っているということから興正寺を一派の本寺とするような主張をしていきますが、これと同様の主張は月感もしています。

 

 若興門跡様御座不被成候ハヽ、日本一州ノ御門弟ハ皆々此度ノ往生ハミチヲ失ヒ可申処ニ・・・御立退被成候ニ依テ、邪正ノ差別ヲ承リワケ候事、上下万民共ニ此御恩徳不浅奉存候事ニ候、五畿内辺ハ御直参之衆モ後生ヲ大事ト被存候人々ハ、興門様江帰参之衆余多御入候(『浄土真宗異義相論』)

 

 二月二十五日付の月感の書状の一部です。宛名は記されていませんが、内容より、月感から地元の肥後の弟子の坊主に出されたもので、承応三年のものです。書かれているのは、もし准秀上人がいてくれなければ、日本全体の西本願寺の門徒たちは往生の道を失っていたであろうが、准秀上人がいてくれて、准秀上人が天満へと立ち退いてくれたので、邪である西本願寺と正である興正寺の区別が判然とし、万民もありがたく思っているところであり、これによって近畿地方では西本願寺の直参の門下であっても、後生を大事にしている人びとは多くが興正寺に帰参している、ということです。西本願寺が邪であるというのは西本願寺が誤った教えを説いているということです。誤った教えを説く西本願寺に取って代わるのが正しい教えを説く興正寺だといっているのです。本山である西本願寺に代わり、興正寺が本山だといっているのと同じことです。

 

 興正寺を本寺とするといっても、ここでいわれているのは、西本願寺とは別に西本願寺と興正寺が並び立つかたちで興正寺を本寺とするというのではなく、西本願寺に代わって興正寺が本寺になるということです。月感にしてみれば、西本願寺は西吟の理解に依拠することで、それまでの正しい教えを棄て、誤った教えを説くようになった寺です。誤った教えを説く寺が本寺であるはずなく、それまでの正しい教えを継承する興正寺が代わって本寺となるのだといっているのです。

 

 月感ほど明確ではありませんが、こうした考えは准秀上人にもみられるものです。准秀上人は承応二年(一六五三)十二月に良如上人に提出することを求めて西本願寺の家臣に渡した口上書に「御家之御法流、大形末ニ成候」と記しています。西本願寺の教えは途絶えようとしているということですが、一方で准秀上人は、興正寺は親鸞聖人、蓮如上人と継承されてきた教えをそのまま継承しているともいっています。西本願寺で途絶えそうになっている教えは興正寺に継承されているというのです。興正寺が本寺になるということは、単に西本願寺の門下を離れるというのではなく、正しい教えを継承する寺として興正寺が西本願寺に代わって本寺になるということなのです。准秀上人は木像の本尊や親鸞聖人の御影を下付していきますが、それとともに蓮如上人の御影を下付していきますし、蓮如上人の五帖御文を開版してそれを下していきます。これも親鸞聖人、蓮如上人と継承されてきた教えを興正寺が継承しているという考えからなされたものです。

 

 准秀上人と月感には共通した主張がみられますが、月感は准秀上人が京都から天満へと移ったのち、西本願寺の処罰を避けるために逃げ込んでいた東本願寺寺内から天満へと移っており、准秀上人とともに天満に住んでいました。准秀上人は承応二年(一六五三)の十二月に天満に移りますが、月感は翌承応三年の一月に天満に移ったものと思われます。准秀上人の考えや行動には月感の影響によるものもみられるようです。

 

 月感は二月二十五日付の書状で、肥後では西本願寺の直参の門下で、早速、興正寺の門下になった者も多くいることであろうと察していると記しています。

 

 其表モ・・・定而御直参ノ衆もカツヽヽ興門様江御帰参可有と察候

 

 こうしたことを述べることで、実際に興正寺の門下となるように煽っているのです。准秀上人は本尊や御影を下付していきますが、もっとも多く御影などが下付されている地域は肥後です。准秀上人と月感は連携しながら活動をすすめているのです。

 

(熊野恒陽記)

 

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