【百三十八】秀吉 秀吉を門徒だと捉える人もいた

2019.09.20

 織田信長の死後、力を強めっていったのは羽柴秀吉です。信長は天正十年(一五八二)六月二日に明智光秀によって倒されますが、秀吉は六月十三日、信長を倒した光秀を攻め、光秀を死に追いやると、その後も策略をめぐらし権力を掌握していきました。

 

 本願寺は信長と激しく戦ったものの、和睦後は友好的な関係を保っていました。信長の死後、本願寺は信長に代わり、秀吉と関わっていくことになりますが、秀吉との関係も信長との関係と同様に友好的なものでした。天正十年八月、秀吉は本願寺に堺御坊の跡地と寺領、それに堺の坊主たちの屋敷と田畠を返付するといってきました。信長との戦いの際に没収されたものです。本願寺は直ちに家臣を堺に遣わし、対応にあたらせました。堺の御坊の跡地と寺領は十一月となって本願寺に返付されます。

 

 堺御坊如先々被返付了、堺御坊ノ寺領百八十石計、並興正寺殿分又諸坊主以下ノ分百石ニ不足・・・

 イツレモ被返付了(『鷺森日記』)

 

 堺御坊の跡地と寺領百八十石が返付されたとありますが、それに続けて興正寺とそのほかの坊主たちがもっていた百石弱の地も返付されたとあります。この時、返付された地には興正寺が領有していた地も含まれていたのです。堺は興正寺門下の有力な坊主が何人もいる所で、興正寺の門徒も多くいた地です。そうしたことから興正寺も土地を領有していたものと思われます。

 

 この堺御坊の返付に先だって、秀吉は天正十年十月、京都の大徳寺で信長を追悼する法要を営んでいます。この法要は政治的な意図をもって執り行なわれたものです。秀吉は主君である信長の追悼法要を主催することで、信長の後継者は自分だと示そうとしたのです。信長の後継者は、最初から秀吉が後継者だと決まっていたわけではなく、柴田勝家と羽柴秀吉とが後継者の地位をめぐって争っていました。信長を追悼する法要は勝家の側も営んでいましたが、そうした勝家の動きを圧する意味で執り行なわれたのがこの法要です。法要は贅を尽くし、きわめて盛大に行なわれました。この法要に際して、本願寺は秀吉に香典を贈っています。

 

 柴田勝家と秀吉との対立はその後も続き、ついには両者の合戦へと発展していきます。最初に兵を挙げたのは秀吉です。天正十年十二月、秀吉は近江に兵を進め、勝家に味方する勢力と戦いました。こののちも秀吉は美濃、伊勢で勝家方の勢力と戦い、天正十一年(一五八三)四月には、秀吉と勝家との直接の対決へと到ります。戦いの場となったのは近江の賎ヶ岳です。この合戦では秀吉勢が勝家勢を圧倒しました。勝家は劣勢のなか、居城である越前の北ノ庄城に逃げ帰りましたが、秀吉勢に追われ、北ノ庄城で自刃します。死後、勝家の首は京都の六条河原に晒されました。

 

 この賎ヶ岳での合戦にあたって、本願寺は秀吉に加賀の一揆を蜂起させ、秀吉の勝家への攻撃に加担すると申し出ています。勝家勢は越前から近江に進んでおり、加賀の一揆勢が蜂起すれば、背後から勝家勢を攻めるかたちとなります。秀吉はこの本願寺の申し出を賞し、一揆勢に勲功があったなら、加賀国を本願寺に返すと伝えてきました(「本願寺文書」)。加賀は一揆勢が現地を支配し、本願寺の領国のようになっていた地域です。その加賀を本願寺に返すというのです。もともと本願寺の領国であったとはいえ、加賀を返すというのは、恩賞としては大きな恩賞です。秀吉も本願寺の申し出には感じ入っていたのだといえます。

 

 この時には、一揆が蜂起する前に戦いが終わり、実際に一揆が蜂起することはありませんでしたが、本願寺は秀吉に軍事的な協力をもいとわなかったのです。本願寺は細川晴元や織田信長と戦いはしましたが、自らすすんで武将たちに軍事的な協力をすることはなく、協力を求められても断ってきました。軍事協力を申しでていることから、本願寺が秀吉に、どのようなことであろうと協力するとの態度で接していたことが分かります。本願寺は秀吉に服従し、協力を惜しまなかったわけですが、秀吉の側も本願寺に対してはそれなりの遇し方をしていました。秀吉と本願寺との昵懇な様子は、当時、一般によく知られていたことで、なかには秀吉を本願寺の門徒だと理解していた人もいました。

 

 羽築門徒ナル故云々(『多聞院日記』)

 

 羽築は秀吉のことです。現実には秀吉は門徒ではありませんが、秀吉と本願寺とが親しくしていたことから門徒と考えたのです。秀吉と本願寺との昵懇な関係はこの後も続いていくことになります。

 

(熊野恒陽記)

 

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