【百四十九】七条堀川 その二 天満に御堂をのこしたまま移転

2019.09.20

 本願寺は豊臣秀吉から京都へ移転することを命じられ、天正十九年(一五九一)閏一月五日、秀吉から六条堀川の地を寄進されます。秀吉から寄進されたのは九万坪を超える広さの地でした。この地は本願寺の境内地とともに、本願寺の寺内町として用いるため寄進されたものです。

 

 土地の寄進後は移転のための準備が進められ、本願寺は天正十九年の八月となって天満から京都の六条堀川へと移転します。この間の二月三日、天満の本願寺では准如上人が得度しています。准如上人は顕尊上人の弟で、のちに本願寺を継ぐ人です。准如上人は十五歳であり、得度すべき年齢となっていました。

 

 顕如上人が六条堀川に移り住むのは八月五日のことです。翌六日には御影堂の柱立てが行なわれました。御影堂はあらたに建てられたものではなく、天満の御影堂を移築して用いました。そのため柱立てといっても、特に祝いの行事などはありませんでした。

 

 八月五日の移転の際は、顕尊上人も顕如上人とともに京都に移っています。顕尊上人は本願寺の南側、現在、興正寺のある七条堀川の地に移りました。顕尊上人が移った時の興正寺の境内地はいまより狭く、堀川通りに面した間口は四十四間でした。境内の北の端は現在と変わりがありませんが、南の端は現在の御影堂の南の廂あたりまでしかなく、七条通りには面していませんでした。興正寺はのちの時代となって、境内地を南側に拡張し、現在の広さとなります。

 

 本願寺、興正寺の移転にあたっては、本願寺と興正寺の家臣や末寺の坊主、それに天満寺内町に住んでいた町人など多くの人びともともに京都へと移りました。

 

 天満ヨリ御供シテ直ニ京七条境内ニ住スル輩数多シ、番匠、絵図師、仏具師、紀州已来随附シテ今境内ニ家敷ヲ給フ(『紫雲殿由縁記』)

 

 天満からともに来た者は多く、番匠、絵師、仏具師には本願寺に従い鷺森から貝塚、天満を経て京都に来た者もいたと書かれています。番匠とは大工のことです。大工である番匠は本願寺の建造物の建築や修繕にあたり、絵師は本願寺が下付する絵像を描くのが仕事です。彼らは本願寺に関わることによって生活しているわけで、本願寺に従うのは当然のことです。移転後は、家臣や末寺の坊主は割り当てられた地所に住み、町人たちもそれぞれ寺内町に住みました。顕尊上人は天満で妻祐心尼の近親者である四条隆昌、冷泉為満、山科言経の三人の公家の生活の面倒をみていましたが、その三人も興正寺の移転にともない天満から京都の寺内町に移り住んでいます。

 

 京都の本願寺の寺内町は西本願寺の東側、南北の油小路とさらにその東の新町通りに沿ったあたりから開けはじめ、次第に周囲へと町場をひろげていきます。以後、寺内町は発展し、江戸時代後半には寺内町のなかに六十一もの町ができ、人口も一万人ほどに及びました。町の発展とともに寺内町の面積も拡張し、江戸時代後半には十三万坪ほどになります。

 

 京都への移転の際には、本願寺は天満の御影堂を京都へと移築しています。いうなれば建物ごと京都へと移転したわけで、天満に本願寺の跡というものはのこされません。これに対し、興正寺は天満に御堂をのこしたまま京都へと移転します。天満の御堂は顕尊上人が京都へ移ったあとも興正寺の寺号を号します。興正寺の天満御坊です。本願寺は天満に何ものこさず、興正寺はもとの天満の興正寺をそのままのこしているということは、本願寺は天満の地を興正寺にゆだねたということです。天満の地を興正寺にゆだねるというのは顕如上人の意向であったのだと思います。顕如上人の意向をうけ、興正寺だけが天満にそのまま御堂をのこすというかたちになったのです。

 

 天満御坊は大坂という重要な地にあります。顕尊上人も京都移転後、何度も天満御坊を訪れています。顕尊上人の代以後にあっても、興正寺が京都の本寺に次いで重視したのはこの天満御坊です。

 

 江戸時代、大坂では切支丹でないことの証明として、町人は、毎月、宗旨巻(しゅうしまき)という証文に印を押しました。宗旨巻は、毎年、奉行所に納められますが、その際には大坂三郷の北組は北御堂といわれる西本願寺津村御坊、南組は南御堂といわれる東本願寺難波御坊に各町の町年寄りが宗旨巻を持参し、役人に宗旨巻を納めました。天満組の各町の町年寄りが宗旨巻を持参し、役人に宗旨巻を納めたのは興正寺の天満御坊です。天満御坊は天満を代表する寺だったのです。

 

(熊野恒陽記)

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