【百五十二】継職と隠退 その二 偽作された譲り状

2019.09.20

 文禄二年(一五九三)の閏九月のはじめ、顕如上人の妻如春尼は豊臣秀吉に、顕如上人が三男の准如上人に宛てた本願寺住持職の譲り状があるといって、教如上人の住持職の解任を訴えます。これをうけて秀吉は閏九月十六日、教如上人と下間頼廉、下間仲之たちを大坂城に召し出します。頼廉は教如上人に仕えていた人物であり、仲之は顕如上人の側近だった人物です。

 

 召し出された教如上人たちに対して、秀吉は教如上人の非を列挙し、それらの非があることから教如上人は住持に相応しくないとして、教如上人の隠居を命じます。秀吉が挙げた教如上人の非は、教如上人が織田信長に対する反逆者であること、父の顕如上人が勘当した者を登用したこと、女性関係に問題があること、それに顕如上人から准如上人に宛てた住持職の譲り状があって教如上人は本来の後継者ではないといったことです。秀吉は教如上人にはこうした非はあるが、これらを改めるなら十年間は住持を続けることを認めるので、十年目に准如上人に住持の職を譲り隠居するようにと命じました。隠居といっても、すぐに隠居するよう命じたわけではないのです。教如上人はこの秀吉の命令を了承しますが、教如上人に仕えていた下間頼廉がこれに異をとなえました。頼廉は譲り状には疑問があると主張したのです。しかし、頼廉の主張は裏目にでます。秀吉は頼廉の主張に怒り、教如上人に即時に隠居するように命じたのです。これにより教如上人は隠居し、弟の准如上人が本願寺の住持職を継ぎます。

 

 秀吉の挙げた非のうち、織田信長への反逆者であるというのは、顕如上人の退却後も大坂にとどまり信長と戦ったこと、顕如上人の勘当した者を登用したというのは、教如上人とともに戦いを続けたことで顕如上人の勘気をこうむった者を教如上人が次つぎに登用していったことを指しています。女性関係に問題があるというのは、教如上人が正妻をさしおいて、お福という名の側室を寵愛したことを指しています。教如上人の女性関係は世に知られており、側近たちが教如上人を諌めたほどでした。これらの非は確かに事実として認められることです。しかし、挙げられた非のうち顕如上人の譲り状があるということについてはすぐに事実として認められることではありません。譲り状は如春尼が秀吉に示したものですが、その譲り状自体に不審がのこるのです。頼廉が疑問を呈したのも当然です。

 

 この譲り状は現に西本願寺に伝えられています。天正十五年十二月六日付けで、顕如上人から、当時、阿茶といわれていた准如上人に住持職を譲るといった内容になっています。頼廉が疑問を呈したように、この譲り状は当初から疑いがもたれていたものです。その疑いは払拭されたわけでなく、教如上人の側に立つ東本願寺は、以後、一貫してこれを偽作した物だと主張してきました。これに対し、准如上人の側に立つ西本願寺はこれを本物だとしており、現在においても本物だとの主張を続けています。准如上人が継ぎ、以後は准如上人の子孫が継いでいくのが西本願寺ですから、西本願寺がこれを本物だと主張するのも無理からぬことですが、これを本物だと主張しているのは西本願寺の関係者だけです。本物だとの主張は強弁というべきもので、一般にはこの譲り状は偽作されたものとみなされています。そもそも准如上人への譲り状があったのなら、准如上人が最初から本願寺の住持職を継いでいるはずで、教如上人が住持職を継ぐなどということはありえないことです。それに顕如上人の在世中のこととしても、教如上人は新門主として遇せられていましたが、准如上人が新門主として遇せられたことはありません。譲り状は教如上人の住持職の継職に不満をもつ者によって偽作されたものなのです。

 

 譲り状が偽作されたものであれば、如春尼は秀吉をも欺いたことになりますが、秀吉がこんな単純なことに気づかないはずはありません。秀吉は譲り状を偽物と承知の上であえて本物として扱っているのです。本願寺の内部は教如上人を支持する派と顕如上人を支持する派に分かれており、如春尼、准如上人は顕如上人を支持する派を援護していましたが、秀吉もまた顕如上人を支持する派を援護するようになったのです。

 

 秀吉の命令であるなら、教如上人も隠居せざるをえません。顕如上人を支持する派は秀吉の援護をえて教如上人を解任へと追い込んだのです。教如上人は秀吉の命令をうけ、隠居することを受諾する請文を提出しますが、そこには譲り状をみて納得したので自分は隠居するとの一文が書かれています。

 

(熊野恒陽 記)

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