【二】「二人の真仏」
2019.08.26
興正寺では歴代の第二世を真仏上人としています。
古来、興正寺ではこの真仏上人を高田の真仏のことだと伝えてきました。興正寺と同じ系統である佛光寺でも、真仏上人はやはり高田の真仏のこととされています。真仏上人を高田の真仏とすることは、むかしから疑われることもなかったようです。
高田の真仏は親鸞聖人の門弟のなかでも筆頭の弟子というべき人で、下野国(栃木県)の高田に住したことから高田の真仏といわれます。真仏には弟子も多く、この集団がのちに高田派となっていきます。興正寺もこの系統から分かれたもので、もともとは同じ系統であったとされています。
これに対し、興正寺の真仏上人は高田の真仏ではない、というあらたな説が出され、近年では興正寺の真仏上人と高田の真仏は別人であると説かれることが多くなってきました。
この説は龍谷大学の宮崎圓遵博士がいわれたもので、親鸞伝絵に出てくる平太郎が法名を真仏といい、この平太郎が興正寺の真仏上人だとされます。
親鸞聖人には真仏という門弟が二人いたことになり、どちらが興正寺の真仏上人なのか、意見が分かれるところです。
親鸞伝絵のなかでは、平太郎は常陸国(茨城県)の住人とされ、主人とともに熊野詣にいくことになった平太郎が、親鸞聖人に念仏の行者が神に参ってよいものかをたずねたとされています。ここでは平太郎は俗名のままで真仏とはいわれませんが、この話にはもとになった話があって、そこにはこの平太郎が法名を真仏といったとされています。
もとの話は『親鸞聖人御因縁』と題される本に記されており、親鸞伝絵よりもくわしく平太郎の熊野詣のことがのべられています。それによると、平太郎は常陸国から主人とともに熊野詣に出かけますが、道中、神に参るときの作法を守らず、念仏をとなえ、けがれなども気にかけなかったとされます。
人々は平太郎を非難しますが、皆の夢のなかに熊野権現が現れ、平太郎の態度こそ神の本意にかなうものであり、まことの仏なのだと告げます。この「まことの仏」という告げにより、真仏との名がつけられたのだとされています。
この本には、興正寺の第三世とされる源海上人が平太郎真仏の弟子となったとも書かれています。そこから興正寺の真仏上人は平太郎真仏のことだといわれるようになりました。
平太郎という人物は実在の人物で、『親鸞聖人御因縁』の記述に従うなら、平太郎が興正寺の真仏上人ということになります。しかし、不思議なことに第三世の源海上人が平太郎真仏の弟子となったとするのはこの本だけで、ほかの古い記録には源海上人は高田門徒だと書かれています。親鸞聖人の門弟の名を書いた『親鸞聖人門侶交名牒』という重要な史料にも源海上人は高田の真仏の弟子とされています。
こちらの記述に従うなら、興正寺の真仏上人は高田の真仏ということになります。どちらの説が正しいのでしょうか。これにはいろいろな見解が出されていますが、やはりむかしからの伝えのとおりに高田の真仏とするのが正しいのだと思います。
古い時代、興正寺の系統の寺などでは、光明本尊や連坐像といわれるものが用いられていましたが、そこには源海上人とともに僧の姿の真仏上人が描かれています。平太郎が真仏上人なら、この僧は平太郎のことになりますが、なかには高田の真仏を意識して描いたとみられるものも伝わっており、これを平太郎だとするのは無理のようです。平太郎自身も僧ではなく、一生俗人のままだったようです(存覚袖日記)。
平太郎が真仏という法名を名のったというのも『親鸞聖人御因縁』にだけ出てくることで、本当に真仏と名のったのかは実のところ定かではありません。親鸞伝絵では俗名のまま平太郎とされており、俗名しかなかったようにも思えます。
結局、『親鸞聖人御因縁』だけがほかとはちがった所伝を伝えているということになるのですが、この本は説話性を重視して記されたもので、平太郎が真仏上人だというのも、説話としてそうなっているだけだと思います。
平太郎の熊野詣の説話を師の真仏の説話として強引に取り入れたため、説話のなかで平太郎を真仏にしていったのではないでしょうか。当時から説話だと判っていたから、ほかの記録ではこの所伝を伝えることがなかったのだと思います。
(熊野恒陽 記)