【百五十九】准尊上人 継職後に徳川家康と面会する

2019.09.20

 顕尊上人が亡くなったあと興正寺の住持の職を継いだのは顕尊上人の長男の准尊上人です。准尊上人は天正十三年(一五八五)の生まれで,慶長四年(一五九九)三月三日、顕尊上人が亡くなった時には十五歳でした。准尊上人は文禄三年(一五九四)三月十五日、十歳の時に得度しており、翌文禄四年(一五九五)の五月からは建仁寺の塔頭である両足院に入って、しばらくの間、学問の修得にもつとめていました。

 

 建仁寺は京都の東山にある臨済宗の寺で、京都五山の第三位に位置します。五山では学問が盛んで、中世後期の日本の学問は貴族と五山の禅僧によって担われましたが、建仁寺の両足院はそのなかでも特に学問が盛んであった寺です。准尊上人が入寺した時の両足院の住持は梅仙東逋(ばいせんとうほ)という僧です。この東逋も学僧として知られた人です。山科言経は顕尊上人と姻戚関係にあり、顕尊上人や顕尊上人の妻の祐心尼と接し、故実や学問の指導にあたっていましたが、准尊上人の両足院への入寺もこの言経が仲介したようです。准尊上人の入寺後、言経はしばしば両足院を訪れ、住持の東逋に会ったり、准尊上人を見舞ったりしています。

 

 言経が准尊上人の両足院への入寺を仲介したのは、顕尊上人に子息の准尊上人を学ばせるという願いがあり、それをうけて言経は准尊上人の両足院への入寺を仲介したのです。顕尊上人の准尊上人に対する親としての配慮だといえますが、顕尊上人の准尊上人に対する気遣いはこれだけではありません。顕尊上人は准尊上人の僧位、僧官についても配慮して、言経に相談をしていましたし、准尊上人の結婚に関わることについても相談をしていました(『言経卿記』)。子どもの安泰を願うのは当たり前のことですが、顕尊上人もまた子息の准尊上人の安泰を願ったのでした。

 

 准尊上人は慶長四年の三月に興正寺の住持となったあと、六月二日には徳川家康と面会しています。当時、家康は京都の伏見城におり、准尊上人は伏見城で家康と会いました。その際、准尊上人は山科言経、冷泉為満、四条隆昌たちとともに伏見城に向かっています。一行には下間頼亮が付き従いました(『言経卿記』)。言経、為満、隆昌の三人は顕尊上人と姻戚関係にあり、三人が勅勘をこうむったことから、顕尊上人が三人の生活の面倒をみていました。一行に従った下間頼亮は顕尊上人に仕えていた人物で、顕尊上人が亡くなったあとは准尊上人に仕えました。豊臣秀吉は慶長三年(一五九八)八月に死亡しますが、秀吉の没後に一番の実力者と目されていたのが家康です。家康が天下を手にする関ヶ原の戦いがあったのは慶長五年(一六〇〇)九月のことであり、この段階ではまだ最高権力者とはいえませんが、家康と会うということには政治的に大きな意味がありました。

 

 この家康と准尊上人の面会を調えたのも山科言経です。言経ははやくから家康に取り入り、家康から扶持米を支給されていました。そして、慶長三年には家康の力添えによって、勅勘を赦免されています。この家康と言経の関係から、准尊上人は家康と面会することができたのです。家康と興正寺の関係はこの時にはじまったわけではなく、これ以前の文禄二年(一五九三)九月十五日、言経との関係から、家康は顕尊上人の妻、祐心尼に会うため興正寺を訪れています。顕尊上人は言経の面倒をみましたが、言経が興正寺のためにしたことも大きなものがあったのです。

 

 准尊上人は現在の興正寺では歴代の第十八世とされています。この十八世というのは現在の数え方であり、准尊上人の在世当時の数え方ではありません。准尊上人が生きた江戸時代初期の数え方では、准尊上人は第五世です。興正寺は直接には佛光寺を出て興正寺を興した蓮教上人にはじまりますが、当時はこの蓮教上人を第一世とし、以下、蓮秀上人を第二世、証秀上人を第三世、顕尊上人を第四世としていました。この後、興正寺は本願寺と対立し、一派としての独立を求めるようになりますが、それとともに興正寺は歴代を蓮教上人以前の佛光寺の歴代にさかのぼらせて数えるようになります。もっとも、その場合も、現在、第九世とされる了明尼公、第十二世とされる光教上人を入れずに数えていました。二人が歴代に加えられるのは明治になってからです。この数え方では准尊上人は第十六世です。准尊上人および歴代の上人たちの代数はこうして時代とともに変わっていったのです。

 

(熊野恒陽記)

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