【百六十】徳川家康 家康との関係が険悪なものに
2019.09.20
准尊上人は父顕尊上人と姻戚関係にあった山科言経が徳川家康の扶持を受けていたことから、その関係を通じて家康の面識をえていましたが、この時期、積極的に家康への接近をはかったのが教如上人です。教如上人と家康との交流は豊臣秀吉の存命中からありましたが、慶長三年(一五九八)に秀吉が死亡したのちは、より交流を深めていきます。教如上人は豊臣秀吉により本願寺の住持を隠居させられています。秀吉の没後、力を振るいだし、やがて豊臣氏に代わって権力を握る家康に教如上人が接近していくのは自然なことです。
家康は慶長五年(一六〇〇)年九月十五日の関ヶ原の戦いにより権力を掌握しますが、この関ヶ原の戦いの前の慶長五年七月、教如上人は下野国におもむき下野の小山の陣にいた家康を訪ねています。すでに大坂では石田三成が決起し、家康を倒すための進軍をはじめていました。三成方は西軍、家康方は東軍といわれます。西軍は毛利輝元を総大将に仰いでいました。
こうした緊迫した時期に教如上人が家康を訪ねているのは、あくまで自分は家康の味方だということを示すためです。家康への恭順の意を表わすことが教如上人の目的でした。教如上人は家康の味方であることを鮮明にしましたが、これにより教如上人は石田三成には敵ということになります。教如上人は小山の陣を訪ねたあと京都に戻りますが、京都への帰路、教如上人は三成方に狙われ、さまざまな妨害にあいます。京都への途中で教如上人がこうむった妨害については、いろいろないい伝えがのこされています。その一つとして、美濃国で三成方の難が及んだ際、門徒衆が刀などの武器を持たず、鋤、鍬を手に教如上人を守ったとされ、この働きからこの門徒衆は直参門徒にとり立てられて、その名も土手組(どろてぐみ)との名を賜ったとの伝えがのこります。この土手組は現在も続いている講組織です。
九月十五日の関ヶ原の戦いは家康方の勝利に終わりますが、戦いの直後の九月二十日にも教如上人は近江国の大津城で家康と対面しています。戦いの勝利を祝うためです。これ以後においても教如上人は家康への接触を続け、関係を深めていきます。
教如上人は家康と良好な関係を築いていきますが、一方で准如上人や准尊上人は逆に家康との間に間隙を生じさせる出来事に巻き込まれていきます。関ヶ原の戦いには安国寺恵瓊(えけい)という僧が西軍として参戦しています。恵瓊は禅僧ですが、毛利氏に仕え、他の武将に対する毛利氏の渉外役をつとめていた者です。のちには豊臣秀吉にも仕え、秀吉の渉外役をもつとめました。秀吉の信任は厚く、恵瓊は秀吉から高録を与えられています。恵瓊は実力者であり、西軍内にあっても重要な役割をはたしていました。この恵瓊が関ヶ原の戦いののち京都の本願寺寺内町に逃げ込んできたのです。寺内町では端坊明勝が恵瓊を匿いました。端坊は興正寺の末寺です。端坊は石見国、周防国、長門国といった毛利氏の勢力下の地方に多くの末寺をかかえており、そのため毛利氏や恵瓊との繋がりがありました。
すぐに探索がはじまり、九月二十三日、恵瓊は家康方の者に捕えられますが、この時、恵瓊を匿ったとして、端坊明勝もともに捕えられます(『言経卿記』)。
関ヶ原の戦い後には恵瓊に限らず、戦いの中心となった石田三成も逃亡しますが、三成の方は近江国で捕縛されます。捕えられた恵瓊、三成たちは罪人として大坂、堺の街を引きまわされ、十月一日、京都の六条の河原で首を切られます。その後、恵瓊、三成たちの首は鴨川にかかる三条の橋のほとりにさらされました。恵瓊を匿った端坊明勝も、それに先だって九月二十九日に処刑されています(『時慶卿記』)。
恵瓊を本願寺寺内町の端坊が匿っていたとなると、その責は准如上人や准尊上人にも及ぶことになります。家康との関係は険悪なものとなりました。
京都の端坊はこれにより闕所(けっしょ)となります。闕所とは犯罪者の土地を没収することです。この時、端坊は興正寺の南西にある金換町にありました。これ以前から端坊は周防国の山口にも坊舎を設けており、土地の没収後、端坊の一族は山口の端坊に逼塞します。京都の端坊は、その後、慶長十年(一六〇五)となって再興されます。今度は興正寺の門前に建てられました。端坊は毛利氏が長門国の萩に本拠地を移したこともあって、慶長十一年(一六〇六)には萩にも坊舎を設けています(『常在京中由緒書』)。端坊と毛利氏との関係は深いものでしたが、関ヶ原の戦いの際はそれが災いして、明勝は死へと追いやられたのです。
(熊野恒陽記)