【百六十三】古満姫 その二 毛利輝元も准尊上人との結婚を望んだ
2019.09.20
准尊上人と毛利輝元の養女、古満姫は慶長七年(一六〇二)八月十二日に結婚しますが、この結婚の話は前年の慶長六年(一六〇一)から進められていったものでした。慶長六年の八月には、顕尊上人の妻で准尊上人の母である祐心尼が山科言経に結納の日取りをどうするかを相談しています(『言経卿記』)。
慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦いののち、徳川家康に敵対した西軍の安国寺恵瓊が本願寺の寺内町に逃げ込み、恵瓊を匿ったとして端坊明勝が処刑されます。恵瓊は毛利氏に仕え、毛利氏と関係の深い人物です。関ヶ原の戦い直後の家康と輝元の関係は緊迫したもので、家康は輝元のすべての所領を没収した上、大名としての身分をも奪う改易に処すつもりでした。しかし、これは毛利家側からのかけ引きもあって見送られ、結局は所領を削減する減封に処すことで落ち着きます。輝元は備後、安芸、因幡、出雲、隠岐、石見、周防、長門の各国と、備中、伯耆の西部の中国地方一帯を支配していましたが、この減封により周防と長門を領するだけになりました。改易はまぬがれたものの、処罰は重いものでした。処罰されたことで、家康と輝元の緊迫した関係も一応は緩和します。准尊上人と古満姫の結婚の話が進められたころには、輝元と縁を結んでも目くじらを立てられることはありませんでした。
毛利氏と興正寺とのつながりは二人の結婚以前からありました。毛利氏の支配していた地域は興正寺の末寺が多かった地域です。興正寺の末寺は安芸、周防、長門に多くあったとともに、山陰の石見や出雲にもありました。それに本願寺が織田信長と戦った時には毛利氏は本願寺に加担し、本願寺とともに信長と戦いました。この信長との戦いの際は端坊が中国の毛利家側と大坂の本願寺の間を往復し、両者の連絡役を果たしています。端坊は毛利氏と深いつながりがあります。
准尊上人の結婚についても、端坊の伝えでは、結婚の仲介は端坊がしたのだとされています。
金吾中納言御簾中御取カヘシ相成リ候ヲ明善御取持申シ興御門跡ヘ御入輿(『京都御本坊御由緒書』)
金吾中納言とは古満姫の前夫の小早川秋秀のことです。秀秋のもとから連れ戻した古満姫を端坊明善の取り持ちによって興正寺に輿入れさせたとあります。
准尊上人と古満姫が結婚する前、二人の縁談がもちあがったころ、輝元は古満姫に消息を送っています。その消息のなかで輝元は准尊上人との縁談をよい縁談だといっています。
こんとの御ゑんのこと、さのミ御心にハあひ申ましく候へとも、ぶしなどのことハはてぬ御心つかいたるへく候、そのうへ世上の成はからハれぬ御事候、此ゑんのことハ、なにと世上わかり候ても心つかいなき事と申、いらい此ほうのためもよき事、御心やすき事申におよはつ(「教行寺文書」)
今度の准尊上人との縁談のことはあまり気乗りしないものかもしれないが、武士との結婚は気遣いがはなはだしく、それに武士なら世の成り行きでその身がどうなるか分からないとあり、続けて、今度の縁談は、相手は武士ではないので、世がどうなっても、とかく気遣いもしなくてよく、こちらにとっても好ましものであり、安心できるものであると述べられています。気遣いが多く、世の成り行きでどうなるか分からい武士と比べ、僧である准尊上人との結婚をよいものだといっているのです。古満姫の前夫、小早川秀秋は豊臣秀吉の縁戚に生まれ、その縁で秀吉の養子となり、その後、さらに毛利氏の一門の小早川隆景の養子となった人物です。秀秋には豊臣方、毛利方、それに徳川方からさまざまなはたらきかけがあり、たえず三つの勢力との関係に苦慮していました。妻の古満姫も夫の縁戚と養父の毛利家との関係にはとても気を遣っていました。それに武士は実際に世の成り行きで立場が大きく変わっていきます。輝元自身、中国地方一帯を支配する身でしたが、豊臣秀吉没後の勢力争いから引き起こされた関ヶ原の戦いの敗北によって、長門と周防の二国のみを支配する身となっていったのです。武士はどうなるか分からないというのは輝元の実感でした。
准尊上人と古満姫の結婚は輝元の意にかなったものであったことが知られますが、その願いの通り二人は結婚します。古満姫の嫁入りの儀式があったのが慶長七年八月十二日です。古満姫の嫁入りには桂左京、毛利伯耆守、児玉淡路守をはじめ百名ほどの長州藩の武士が従ったと記録されています(『長州書物写』)。盛儀であった様子がうかがわれます。
(熊野恒陽 記)