【百六十五】長州下向 その二 キリシタン弾圧の張本人と名指しされる
2019.09.20
准尊上人は慶長十年(一六〇五)の六月から十月まで、妻子を伴って、毛利輝元が治めていた長門、周防に滞在します。その最中の七月二日、長州藩では五郎(ごろ)太(た)石(いし)事件といわれる騒動により、熊谷元直、天野元信の一族が処罰されるという出来事が起こります。
五郎太石事件は輝元の居城である萩城の築城中に発生した事件です。萩城の築城に際し、天野元信、益田元祥の二人の毛利家の重臣がそれぞれ割り当てられた場所の工事にあっていましたが、慶長十年三月、天野方の配下の者たちが運び込んでいた五郎太石を益田方の配下の者三人が盗み取るということがありました。
五郎太石というのは石垣などで大きな岩の間を埋めるのに用いる小さな石のことです。天野方の者たちは三人を捕え益田方に訴えます。益田方で対応にあたった者は穏便にことを終わらせようとしましたが、天野方はおさまりませんでした。天野方は前にも石を盗まれたとして、その分も返すように要求します。対して益田方は前の分は証拠が無いからといって要求を拒否します。ここから双方の争いは拡大していきます。対立が深まるなか、その後、益田方は争いのもとになった石を盗んだ三人の者の首を斬り天野方に差し出しますが、天野方はそれでも許しませんでした。
この争いにより築城工事は中断します。争いにより藩政にもいろいろな影響が出るようになりました。
長引く争いに対し、輝元は天野方に非があるとして、七月二日、兵を出し、熊谷元直、天野元信一族を討ち取ります。熊谷元直は天野元信の妻の父です。そのため熊谷元直は天野方に加担していました。熊谷、天野一族の死でこの騒動は落着しました。
准尊上人はこの五郎太石事件と関係しているとされます。熊谷元直はキリシタンです。キリシタンであったことが、元直が討たれた要因の一つとなったともいわれています。当時、日本にいたイエズス会のジョアン・ロドリゲス・ジランは元直の死を慶長十一年(一六〇六)三月十日付けの書簡でイエズス会本部に報告しています。ジランはキリシタン側の立場から元直はキリシタンであるため殺されたと解して、元直の死を報告していますが、その書簡でジランは輝元にキリシタンの弾圧を勧めたのは准尊上人だと述べています。
書簡では准尊上人は、シチジョウコモン、と表わされています。京都七条堀川の興正寺門跡、七条興門のことです。七条興門は一向宗の坊主で、有名な大坂の坊主の兄弟だと説明されています。大坂はかつての本願寺の所在地で、大坂の坊主は本願寺住持の准如上人のことです。兄弟とありますが、准如上人の妻は准尊上人の姉ですから兄弟といえば兄弟です。書簡には七条興門は毛利の夫人の親類にあたる女と結婚し、毛利と親しいとも書かれています。その七条興門が毛利をそそのかし熊谷元直を死に追いやったというのです。
元直が処罰された直後、周防の山口では洗礼名ダミアンという者が長州藩により処刑されます。ダミアンは盲目の琵琶法師でしたが、キリスト教を学び山口のキリシタンの指導者となった人です。ジランはこのダミアンの処刑についても、書簡で七条興門が勧めたものだと報告しています。書簡によると、ダミアンは処刑の前、改宗を迫られ、教えを棄て一向宗になるなら、毛利の親戚と結婚している一向宗の一番上の坊主の所に預け、十分な生活費を与えるといわれたといいます。ダミアンはそれを拒絶し、処刑されました。
このほか、ジランは書簡で毛利は七条興門に山口のキリシタンの聖堂と住居を与えたといっています。山口にはキリシタンが多く、教会もありました。その教会を与えたというのです。教会は現在の山口市道場門前二丁目の本門法華宗本圀寺の前にあったことが分かっています。山口の古い町の様子を描く「山口古図」という古地図には、本圀寺の前に「興御殿」というものがあります。興正寺の御殿ということで、与えられた教会のことだと思われます。そして、この興御殿こそが萩の清光寺の前身の山口の清光寺なのだと思います。清光寺は端坊と関係が深いですが、この興御殿のすぐ近くの地にはいまも山口の端坊が建っています。
ジアンは准尊上人がキリシタンの殺害を勧めたといっていますが、これはあくまでジアン自身の考えを述べたものです。キリシタンが弾圧された時期、准尊上人は長州、周防に下り、輝元にもてなされます。キリシタンが迫害されるのに対し、准尊上人が優遇されたことから、ジアンはキリシタンの弾圧は准尊上人のせいなのだと捉えたのだと思われます。
(熊野恒陽記)