【百六十六】如尊尼 その一 准尊上人が東本願寺への加担を企てる
2019.09.20
慶長十二年(一六〇七)四月八日、准尊上人と古満姫の間に男子が生まれます。准尊上人が亡くなった後に興正寺を継ぐことになる、のちの准秀上人です。准尊上人と古満姫の間には慶長八年(一六〇三)に長女、慶長九年(一六〇四)に二女が生まれ、慶長十一年(一六〇八)に長男が生まれています。しかし、この長男は生まれてからわずか二箇月で亡くなってしまいます。長男が亡くなった翌年に生まれたのが准秀上人です。准秀上人の誕生は人びとから望まれたものでした。
この准秀上人の誕生の直後の慶長十二年の六月ころ、准尊上人は准如上人に与するのをやめて准如上人と敵対する教如上人の側に加担しようとします。慶長七年(一六〇四)、徳川家康が教如上人に烏丸六条の地を与えてから五年が経っています。この間、教如上人は阿弥陀堂、御影堂をはじめとする建造物の造立を続け、東本願寺は一派の本山としてふさわしい規模の寺院になっていました。本願寺は東西の本願寺に分かれましたが、本願寺が分かれたからといって、全国の末寺、門徒までもが一斉に截然と二派に分かれたわけではありません。末寺、門徒はそれぞれの事情によって東西のどちらに帰属するかを決めましたが、すぐに帰属をはっきりとさせる末寺がある一方、曖昧なまま、どちらつかずの状態で過ごしている末寺もありました。全国の末寺、門徒はかなり長い時間をかけながら東西の二派に分れていきます。准尊上人が教如上人に与しようとしたころには、東西の本願寺はともに末寺に対し帰属を求める勧誘の活動を繰りひろげていました。
准尊上人が教如上人の側に加担しようとしたことは准如上人の書いた文書から知られることです。
こんとこうもん、ほうしゆゐん、ないきひきつれ、けうによへまゐるべきよし、しんもんかちうよりたしかに申きたり候。このはうへ一わうのとどけもなく、かやうのくわたて、めんほくうしない申候(「本願寺文書」)
今度、興門が宝寿院と内儀を引きつれ、教如の方へ参るということを信門家中より確かに伝えられた、こちらには何の断りもないのに、こうした企てをされ、面目を失った、と書いてあります。宝寿院は准尊上人の母の宝寿院祐心尼、内儀は准尊上人の妻の古満姫のことです。信門は信浄院門跡を略したもので、信浄院は教如上人の院号です。准尊上人が母と妻とともに教如上人の側につく、ということを教如上人の側から知らされたというのです。この文書には六月十七日の日付があり、慶長十二年の六月十七日のものと考えられています。ここから慶長十二年の六月ころ、准尊上人が教如上人に与しようとしたということが分かります。
准尊上人が准如上人に与するのをやめようとしたのは理由があってのことです。准如上人の妻である如尊尼は准尊上人の姉であり、准尊上人にとって准如上人は姉の夫です。この如尊尼と准如上人の間には二人の女子が生まれていましたが、男子は生まれていませんでした。准如上人と如尊尼の間には男子は生まれませんでしたが、慶長九年、准如上人と四条局という名の女性との間に男子が生まれます。この男子は阿茶丸と名付けられ育てられましたが、准如上人はこの阿茶丸を自分の後継者にしようとしたのです。如尊尼は准如上人の正室であり、四条局は准如上人の側室です。如尊尼の気持ちも考えず、側室の子を後継者にしようとしたことが准尊上人にとっては不満でした。准尊上人は母の祐心尼を引きつれ教如上人の側につこうとしましたが、祐心尼は如尊尼の母でもあります。准如上人の措置は祐心尼にとっても不快なことでした。准尊上人は阿茶丸を後継者とすることへの不満から以前より准如上人にいろいろな申し入れをしていましたが、准如上人は准尊上人の申し入れへの返答も渋ったままでした。こうした准如上人の煮え切らない対応に、准尊上人は准如上人に与することをやめようとしたのです。慶長十二年には、准如上人は三十一歳、如尊尼は二十四歳です。もう男子を望めないという年齢ではありません。准尊上人が不満をいだくのは当然のことです。
准如上人と如尊尼は夫婦ですが、准如上人は顕尊上人の弟、如尊尼は顕尊上人の娘であって、二人は叔父、姪の関係にあります。叔父、姪の関係でありながら二人が結婚したのは、教如上人との対抗上、准如上人と興正寺との結びつきを強めるためでした。しかし、実際には、准如上人と如尊尼が結婚したことが遠因となって、准尊上人は准如上人に与するのをやめ教如上人の側に加担しようとしたのです。
(熊野恒陽記)