【百六十七】如尊尼 その二 東本願寺への加担を取りやめる

2019.09.20

 西本願寺の准如上人は側室の四条局との間に生まれた阿茶丸を自分の後継者にしようとします。准如上人の正室の如尊尼の弟である准尊上人は、これに不満をいだき、慶長十二年(一六〇七)六月ころ、准如上人との縁を切り東本願寺の教如上人に与しようとします。

 

 現実に准尊上人が東本願寺に加担するとなると、西本願寺は大きな損害をこうむることになります。それを避けるため、この准尊上人と准如上人の争いに対しては、本願寺の一家衆である顕証寺、慈敬寺の住持が間に入って、和解に向けての話し合いが進められました。話し合いは順調に進み、慶長十二年の七月三日、准尊上人と准如上人の間で和議の誓紙が交わされます。

 

 この時、准尊上人が提出した誓紙には、まず、今後は教如上人からどのようなことをいってきても同心せず、いわれたことは准如上人に報告する、ということが誓われ、次いで、以後は世上のことも仏法のことも准如上人に協力する、ということが誓われています。

 

 そして、四条局の子の阿茶丸について、阿茶丸は三年後に西本願寺に引き取ることにして、その際は異論を唱えない、ということが誓われています。このうちでは、教如上人には従わないということが、もっとも重要な誓約ということになります。

 

 対して、准如上人の提出した誓紙には、まず、今後は准尊上人を粗略に扱うことはない、と誓われ、次いで、本願寺の直参に召し上げた興正寺門徒をもとのように興正寺の門徒に戻すということが誓われて、最後に興正寺門徒からの下付物の申請も望みの通りに下付する、ということが誓われています。

 

 一興正寺門徒之儀、直参へ召上申間敷候、其上以来坊主門徒帰参申候共、如前々興正寺門徒相違有間敷事。但口上有。

 一興正寺下万申物之儀、年寄共ニ望之通可申付候事(「龍谷大学所蔵文書」)

 

 興正寺門徒を直参に召し上げないというのは、准尊上人が東本願寺に加担しようとしたことへの対抗措置として、興正寺門下の坊主を西本願寺の直参坊主に召し上げて准尊上人とともに東本願寺に転じないようにしたものを、もとのように興正寺の門下とするということです。合わせて、興正寺の門徒が、一旦、東本願寺に属したとしても、西本願寺側に帰参したなら、再び、興正寺の門徒にするということも述べられています。興正寺門徒に申物を望みの通りに付すというのは、准尊上人への対抗措置として、興正寺の門下には本願寺へ下付物の申請があっても下付物を下さなかったのを、もとのように下すということです。こちらは対抗措置をやめるというのが誓約の中心となっています。

 

 和解に際しては、このほか、如尊尼、阿茶丸の処遇についても意見が交換され、取り決めが作成されています。その取り決めで最初にあげられているのは、今後、准如上人と如尊尼の間に男子が生まれたなら、その男子が家督を継ぐ、ということです。如尊尼が正室なのですから当然のことですが、如尊尼の側を配慮した取り決めです。如尊尼に男子が生まれたらその男子が家督を継ぐということは准尊上人がもっとも強く望んだことであり、この取り決めも准尊上人の希望にそって決められたものです。これ以外の取り決めでは、本願寺に仕えている女房衆については如尊尼が万事を取り締まる、といったことや、如尊尼に仕えている侍や仲居は准如上人に仕えている侍などと同格に扱う、といったことが定められています。正室としての如尊尼の立場を改めて確認したもので、これらも准尊上人の希望にそって決められたものでした。

 

 阿茶丸の処遇については、阿茶丸は三年後に西本願寺に引き取ることにし、それまでは、一切、西本願寺内には立ち入らせない、と決められました。当初、准尊上人は阿茶丸について、阿茶丸は十年後に引き取ることとし、それまでは、一切、西本願寺内に立ち入らせず、引き取ったあとも如尊尼が生んだ二人の娘よりも低く扱う、とすべきだとの申し入れをしていました。しかし、これは准如上人が受け入れず、准如上人の希望を加味して、三年後ということになりました。二人の娘より低く扱うということにもなりませんでした。

 

 准如上人が阿茶丸を後継者にしようとしたことにはじまるこの騒動は、こうして三年後に阿茶丸を引き取るということで決着します。しかし、三年後、阿茶丸が西本願寺に入ることはありませんでした。阿茶丸はこの一年後に五歳で死亡します。あとにのこったのは複雑にもつれた人間関係だけでした。

 

(熊野恒陽記)

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