【百六十八】本堂再建 のちには御影堂になった
2019.09.20
興正寺の本堂は文禄五年(一五九六)閏七月十三日、地震により倒壊します。興正寺の本堂が再建されるのは、その後十二年を経た慶長十三年(一六〇八)のことです。この間、興正寺には本堂はありませんでした。
本堂再建の手斧始めが行なわれたのは慶長十三年の六月十四日です。ついで、七月には石突きと立柱があり、十月十日には移徏の法要が執り行なわれています。法要の導師は西本願寺の准如上人がつとめました。
この時の本堂の再建に際して、准尊上人は懇志の奉加を募ったご消息を書いています。
当寺御堂久退転之間、今度令再興候、雖然、未半作之体之条、時分柄可為雑左候へとも、各被励懇志、不依多少、奉加之儀頼入候(「興正寺文書」)
六月二十六日付けで、伏見門徒衆中に宛てられたものです。興正寺には本堂が久しくなく、本堂を再興したが、いまだ十分なものとはなっていないので懇志の奉加を頼みたい、とあります。再興したが、いまだ十分ではない、との内容から、このご消息は再建の前に書かれたものではなく、移徏の法要を終え、一応の本堂の完成をみたあとに書かれたものと考えられます。六月の手斧始めのあと十月には移徏の法要と、この再建では工事の開始後きわめて短い期間で移徏の法要が行なわれています。こうした短い期間で再建のすべての工事が終わったとは思われません。十月十日の移徏の法要は取りあえず完成したことにして行なわれたものとみられます。そうしたことから准尊上人はいまだ十分ではないとして、懇志の奉加を募っているのです。工事は以後も続いたことになりますが、この本堂には准尊上人の代だけではなく、次の准秀上人の代となっても内陣を工事するなどの手が入れられていきます。
この時、再建された本堂が建っていたのは境内の北側です。現在、興正寺では北側に阿弥陀堂があり、南側に御影堂がありますが、当時は北側に本堂があり、南側には玄関と対面所がありました。この対面所も准尊上人が亡くなったあと、准秀上人が上壇をもうけるなどの改造をほどこしています。
再建された本堂は内部が七間四面の堂です。内陣は出仏壇で、左脇壇には親鸞聖人の等身の御影、右脇壇には当初は顕如上人の御影、以後も通常は本願寺の前住持の御影が掛けてありました。内陣の前面には挟間(さま)障子が入っており、必要に応じて外されました。内陣の左右には余間があり、南側の右余間の押板には、興正寺の歴代を一幅に描いた絵像、聖徳太子と七高僧の絵像、それに九字名号と十字名号が掛けてありました。普段、使われるのはこの右余間だけです。いまの真宗では左右の余間が使われますが、左右の余間を使うのは時代が経ってから行なわれるようになった新しい形式です。古くはもっぱら右余間だけが使われ、右余間でその寺の関係者の年忌の法要を行なうということもありました。興正寺でも江戸時代の初期には、年末の煤払いがすんだあと、右余間で興正寺住持や端坊、東坊、性応寺などがそろって祝いの食事をしていました。
外陣は内陣よりのところに中敷居があり、中敷居より東側が一般の参詣間となっていました。外陣全体の広さは七十畳であったと思われます。規模とするなら、それほど大きな堂ではありません。
この後、興正寺では正面が実長で二十三間にも及ぶ巨大な本堂を建立します。その本堂の上棟は天明四年(一七八四)のことです。その本堂が建立されたのちにも、准尊上人が建てた本堂はとり壊されることはありませんでした。准尊上人の建てた本堂は境内の北東部、現在、経蔵が建っている場所に移築されます。享和三年(一八〇三)に刊行された『二十四輩巡拝図絵』には当時の興正寺境内の俯瞰図が載せられていますが、境内の北東部にはこの准尊上人が建てた堂が描かれています。その絵をみるかぎり、立派な堂です。
正面、二十三間の本堂は准尊上人の建てた本堂のあった場所に建てられ、准尊上人が建てた本堂は境内の北東部に移されますが、准尊上人が建てた本堂はその後さらに新しい本堂の南側に移築されます。興正寺ではこの移築されたもとの本堂を集会所として使うとして、実際に集会所と呼んでいました。しかし、それは表向きだけのことで、このもとの本堂には木像の親鸞聖人の御影が安置されました。あたかも御影堂のように使用するため、もとの本堂を新しい本堂の南側に移築したのです。准尊上人の建てた本堂は本堂として使われたあとも、こうして用途を変え、長く使われていくことになります。
(熊野恒陽記)