【二百十四】承応の鬩牆 その二十三 本山佛光寺の存在

2019.11.24

 月感と西吟の争論は准秀上人と良如上人の争いへと移り変わり、准秀上人は興正寺を一派の本山とするような行動をとるようになります。准秀上人は西本願寺との対立から興正寺を本寺とするような行動を始めますが、末寺が西本願寺と対立した場合、末寺が西本願寺の門下を離れ東本願寺の門下になるということはよくあったことですが、末寺が本寺のような振る舞いをするということはそれまでにはなかったことです。これは准秀上人が興正寺は本寺になってもおかしくない寺であると従前から思っていたため、月感と西吟の争論が契機となって、興正寺を本寺とするような行動をするようになったのだとみることができます。最初から本寺になってもおかしくないとの思いがないのなら、本寺として振る舞うことなどありえないことです。本寺であってもおかしくないとの思いがあったからこそ、本寺としての振る舞いをするようになったのです。

 

 准秀上人は月感と西吟との争論をめぐって西本願寺に強い不満を感じていました。准秀上人には西本願寺が西吟ばかりを優遇し、月感を冷遇するということが不満でしたが、不満はさらにありました。西本願寺の家臣たちは准秀上人のいうことを聞かず、とかく不手際が目立ちました。それに家臣たちは准秀上人をないがしろにするような態度をとりました。良如上人にしても、准秀上人の意向を汲み取ることなく、准秀上人を軽んじるような姿勢をみせていました。准秀上人をあなどっているのであり、准秀上人はこうした対応に非常に強い不満を感じていました。それらの不満と従前からの思いとが結びついて、准秀上人は興正寺を本寺とするような行動をするようになったのです。

 

 准秀上人はこうして興正寺を本寺とするような行動をとるようになりますが、月感と西吟の争論は興正寺を本寺とするような行動への契機となったというだけで、興正寺が本寺になってもおかしくないという思いはそれ以前から准秀上人がいだき続けてきた思いです。興正寺は本願寺下にあって格別に扱われてきた寺です。末寺といっても、普通の末寺とは扱いが全く違っていました。これは蓮教上人が本願寺の教団に参入し、興正寺を建立して以来のことです。興正寺は佛光寺以来の由緒をもち、門下の末寺や門徒が多数に及んでいたため、本願寺は興正寺を格別に遇してきたのでした。その後、興正寺には本願寺から顕尊上人が入寺しますが、興正寺が佛光寺以来の由緒をもつとの意識は興正寺の歴代の住持が一貫してもっていた意識です。そして、この佛光寺以来の由緒をもつということが、興正寺が本寺であってもおかしくないとの思いをうみ出していったのです。蓮教上人が興正寺を建立することで、もとの佛光寺は興正寺とその後の佛光寺とに分かれますが、本願寺下にあった興正寺に対し、佛光寺はそのまま一派の本山として存続していきます。ここから、その後の佛光寺が本寺であるなら興正寺もまた本寺であってもおかしくないのではないかとの思いや、もしも本願寺の教団に参入していなければ興正寺は本寺そのものではないかとの思いが出てくるのです。

 

 興正寺が本寺であってもおかしくないとの思いは准秀上人より前の住持たちもいだいた思いですが、准秀上人は特にそうした思いを強くいだいていたのだと考えられます。准秀上人が活動した時期は江戸幕府が本末制度を整えていく時期にあたっています。西本願寺と興正寺との関係はこの本末制度によってそれまでの時代とは違ったものに変わっていきます。本末制度は仏教教団を統制する制度です。幕府は各宗派の本山に宗派内の末寺を統轄させます。その各宗派の本山を支配することで幕府は本山の下の末寺にまで支配を及ぼしました。幕府の力を背に各本山の権限は強まっていきます。西本願寺も権限を強めました。月感の争論をめぐっての准秀上人に対する良如上人の対応にも強圧的なものがありました。西本願寺は興正寺をそれまでより低く扱い、末寺として圧してきたのです。加えて、興正寺の末寺に対しても本山として支配を及ぼしてきました。准秀上人にはそれが不服でした。西本願寺が権限を強めるとともに、准秀上人は興正寺は西本願寺に末寺として扱われる寺ではなく、本寺であってもおかしくない寺なのだとの思いを強めていったのです。

 

 西本願寺に対する不服な思いはかねてから准秀上人がつのらせていたものです。その不服の上に、月感と西吟の争論をめぐる西本願寺の対応への不満が重なり、准秀上人は西本願寺に対抗し、興正寺を本山とするような行動をするようになったのです。

 

(熊野恒陽記)

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