【二百十五】承応の鬩牆 その二十四 肥後の門下へのご消息

2019.11.24

 准秀上人は承応三年(一六五四)の四月中旬以降、本尊や御影などを下付するようになります。そうしたなか、准秀上人は五月二十八日付で、肥後国惣坊主中、同門徒中に宛て、ご消息を下しています。肥後は月感の地元であり、月感に対する支援が厚かった地です。

 

 仍今度西六条にをひて、祖師の勧まします他力の安心、まちまちに成行、相承血脈の法流、たへはて候歟に見及候間、異見をくわへ候へとも、聞入られす候故、摂州天満へ立去候(「興正寺文書」)

 

 ご消息では、まず准秀上人のおかれている状況が述べられます。京都の六条通りにある西本願寺では親鸞聖人が勧めた他力の安心の理解がまちまちになってしまい、教えの相承も絶え果てそうになっているため、西本願寺に意見を加えてみたところ、聞き入れてもらえないので、天満に移ったと書かれています。教えが途絶えそうになっているというのは、准秀上人の西本願寺への批判の中心に据えられるものです。西本願寺では教えが途絶え、興正寺では教えが継承されているというのが准秀上人の主張です。ご消息ではその途絶えそうになっている親鸞聖人の示した他力の安心というものについても触れられています。

 

 夫、開山聖人御相伝の他力の安心といふハ、何の様もなく、もろもろの雑行雑修、自力のひか思ひをさしをきて、一心一向に、阿弥陀如来、今度の我等が後生たすけ給へとふかく頼ミまいらせて、其上にハ、行住坐臥、時所諸縁をゑらはす、仏恩報謝のため念仏可申斗に候、此外に別にめつらしき事無之候

 

 親鸞聖人より、代々、伝えられてきている他力の安心というものは、雑行雑修や誤った自力の思いを差し置き、一心一向に阿弥陀如来に後生たすけたまえと深くたのみ、その上には時や所を選ばず、つねに仏恩報謝のために念仏を申すばかりで、このほかに特に変わったことはないと書かれています。これが准秀上人が理解する親鸞聖人の教えということになります。古くからいい慣わされてきたことをそのまま述べたもので、まさに伝統的な理解だといえますが、准秀上人によるなら、西本願寺ではこうした理解がなされていないというのです。西本願寺では伝統的な理解に替わって西吟の教学理解に依拠した理解がなされているというのですが、それについてもご消息には触れられています。

 

 近比、人々自力のはからひを以て、相伝もなき名目なとさたせられ候事、弥陀の本願にそむき、祖師の御掟にたかひ候間、能々心得分られ候て、他力の安心に本つき報土往生をとけられへく候事、肝要候者也

 

 このごろ人びとは自力の分別心を用い、これまで相伝されてこなかった用語などを使ってとやかくいっているが、これは阿弥陀如来の本願にそむき、親鸞聖人の定めた掟にも反しているので、よくよくその違いを考え、親鸞聖人の示した他力の安心にもとづいて報土への往生を遂げることが大切だとあります。相伝もなき名目なとさたせられ、とは西吟が自性や観心表事といった語を用いたということですが、そうした西吟の教学理解に依拠した人びとの理解をここでは、自力のはからいで、本願にそむき、掟にたがうものとして批判しています。大げさすぎる批判のようにも思われますが、西本願寺では誤った教えが説かれて正しい教えが途絶えそうになっているということを強調するために、こうしたことがいわれているのです。

 

 五月二十八日付で書かれた准秀上人のご消息はこのご消息だけではありません。ほかに、肥後延寿寺下惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てたものと、肥後国に宛てた二通のご消息が書かれています。このうち延寿寺下の坊主衆、門徒衆宛てのご消息によると、肥後から准秀上人のもとに銀子が贈られたことが知られます。

 

 仍為見廻、両人被指上、殊に銀子弐十枚贈給懇志之程、難有候(「興正寺文書」)

 

 准秀上人を見舞うため使者が派遣され、その使者が銀子二十枚を届けたとあります。肥後は月感の地元だということで、西本願寺も特に坊主や門徒たちの動向に気をつけていました。准秀上人が天満へ移り、西本願寺と対立する態度を示すと、西本願寺はすぐに肥後に使僧を遣わし、坊主や門徒たちが月感や准秀上人に味方しないように工作をしました。工作にかかわらず、肥後の坊主や門徒たちの月感や准秀上人への支援は続けられていたのであり、その支援に応えるため准秀上人はこれらのご消息を書いたのです。

 

(熊野恒陽記)

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