【二百十六】承応の鬩牆 その二十五 西本願寺の対抗措置

2020.01.15

   准秀上人は京都から天満へと移り西本願寺に敵対する行動をしていきますが、こうした行動には、西本願寺の側もいろいろと対抗措置をとっています。准秀上人が天満に移ると、西本願寺はすぐに准秀上人に京都に戻るように説得をはじめますが、それとともに西本願寺は興正寺の門下が准秀上人に従わないようにするため、使僧を各地に派遣し、興正寺の門下の坊主衆に准秀上人に従わないことを誓った誓詞を提出させました。提出を拒否した坊主衆も多かったものの、この誓詞の提出は対抗措置として准秀上人に痛手をあたえるものでした。この時に提出された誓詞は西本願寺によってあらかじめ雛形が用意され、坊主がそこに署名を加え提出するというものです。誓詞には准秀上人は本寺である西本願寺に逆らったが、自分は本寺の西本願寺には逆らうことはなく、もし逆らったなら阿弥陀如来、親鸞聖人の罰をうけるということが書かれていました。本寺である西本願寺に逆らうことはないということは、西本願寺の良如上人に従うということです。准秀上人はこれを西本願寺が興正寺の門下を西本願寺の門下として取り上げるものと受け取りました。

 

 興門跡より方々江申触らるゝ沙汰を私共爰元ニて承候へ者、興門跡末寺門下、本御門跡直参に被相取候様ニ被申触候(『浄土真宗異義相論』)

 

   准秀上人が方々で語っていることとして私たちが聞き及んでいるのは、准秀上人は興正寺の門下の末寺を西本願寺が西本願寺の直参の門下として取り上げているといっているということであると記されています。これは西本願寺の関係者が書いたもので、私共、とは西本願寺の関係者を指します。方々江申触らるゝ、というのは、准秀上人が西本願寺が興正寺の末寺を取り上げていることを非難し、それを方々の人びとに訴えたということです。末寺を取り上げられることが許しがたいことであったため、准秀上人は方々でそれを訴えているのです。末寺は一箇寺であれ手放したくはない重要なものです。末寺を取り上げるというのは、准秀上人にとってもっとも辛い措置でした。   

 

   准秀上人が末寺を取り上げられたと主張する一方、西本願寺の側は末寺を取り上げていないと主張します。西本願寺の関係者が、准秀上人が方々で門下を取り上げられているといっていると書いているのも、西本願寺は取り上げていないのに准秀上人が取り上げていると騒いでいるということを述べるためです。西本願寺は取り上げたのではなく、末寺が自発的に興正寺の下を離れ、西本願寺の直参になったのだといっていました。西本願寺にしても公然と興正寺の末寺を直参にすることが憚れたために、こうしたいい訳をしているのです。准秀上人はかねて西本願寺が興正寺の末寺に支配を及ぼすのを不服に思っていましたが、末寺を取り上げるというのは興正寺の末寺は西本願寺の末寺であって支配権は西本願寺にあるといっているのと同じことです。西本願寺のこうした措置に准秀上人の不満な思いは、一層、深まっていきました。   

 

   このほかの対抗措置として、西本願寺は京都所司代の板倉重宗の力を借り准秀上人に本尊や御影などを下付することをやめさせようともしました。承応三年(一六五四)四月二十八日、西本願寺は重宗に協力を依頼します。しかし、これは西本願寺には不本意なものとなりました。重宗が強く説得することがなかったため、准秀上人も下付をやめなかったのです。重宗の説得が上手くいかなかったことをうけ、西本願寺はついに准秀上人の非を江戸幕府に訴えることにします。幕府に訴えるというのは措置としては最終段階の措置ということになります。六月十七日、西本願寺は幕府に訴えるため家臣の下間仲弘と御堂衆の金光寺を江戸に派遣しました。興正寺と西本願寺の争いは江戸幕府に解決を図ってもらうまでに大きくなっていったのです。

 

   この後、七月になると、前関白の九条幸家、前摂政の二条康道が准秀上人と良如上人の争いの調停に乗り出してきました。二人は公家の最高実力者です。九条幸家の娘は良如上人の妻であり、幸家と良如上人とは姻戚関係にありました。二条康道は二条家を継いではいますが、九条幸家の実子です。この二人は幕府とも関係が深く、調停に乗り出したのも京都所司代の板倉重宗の依頼によるものと思われます。九条幸家と二条康道の二人は七月十七日と二十四日の二度、西本願寺を訪れ、良如上人と面談しています。しかし、二人による調停は不調に終わります。良如上人の側が二人の示した調停案を、断固、拒否したのです。

 

(熊野恒陽 記)

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