【二百十九】承応の鬩牆 その二十八 「破安心相違之覚書条条」
2020.03.31
准秀上人は承応三年(一六五四)の八月の初め、「安心相違之覚書」を著わし良如上人に批判を加えましたが、これに対しては良如上人の側も「破安心相違之覚書条条」を著わし反論を述べていきます。「安心相違之覚書」は興正寺と西本願寺の争いの調停にあたっていた九条幸家、二条康道、板倉重宗たちに准秀上人が送ったものですが、九条幸家は送付をうけ、西本願寺にこの「安心相違之覚書」への返答を求めました。そうして著わされたのが「破安心相違之覚書条条」です。「破安心相違之覚書条条」は九月十六日に九条幸家、二条康道のもとに届けられました。「破安心相違之覚書条条」には良如上人の諱である光円との署名がありますが、実際には良如上人が書いたものではなく、西本願寺の御堂衆たちが相談を重ねた上でまとめたものです。この「破安心相違之覚書条条」では「安心相違之覚書」に記された四箇条の批判に対し、箇条ごとに反論が述べられます。「安心相違之覚書」では最初に良如上人が学問を教える時には聖教の理を明らかにして説かなくてはならないし、理を知らなくて人びとを教化することもできないと述べていることを批判します。准秀上人は『歎異抄』、『御文』のなかの法文、学文より、念仏、信心が大切だとする一文を引いて良如上人を批判しました。学問より信心が大切なのだというのが准秀上人の主張です。これに対し、「破安心相違之覚書条条」では念仏、信心が大切なのは当然であるが、学問もまた大切なのだということが述べられます。学問が重要であることとして「破安心相違之覚書条条」で述べられるのは、親鸞聖人が浄土門の教えに限らず全仏教への深い理解があり、広い知識を備えていたということです。親鸞聖人が智慧にすぐれていたからこそ、真宗の教えはひろまったのであり、それに倣って、人びとを教化する者は学問をして教えを深く理解しなければならないというが「破安心相違之覚書条条」の主張です。
祖師ノ安心ハ、念仏ノ一法ヨリホカニ、オクフカキコトナシトイヘトモ、ステニ大小ノ奥蔵ヲヒラキ、顕密ノ深理ヲキハメ、ヒロク諸経ニヨリテ真偽ヲカンカヘ、アマネク書籍ニワタリテ異執ヲタヽス・・・カルカユヘニ化導オホキニヒロマリ、利益トヲクオヨヘリ・・・シカレハ、コノオシヘヲウケテ、相応ニヒトヲ教化スルモノ、学問ヲセス、聖教ヲミルコトナク、放逸ニシテ光陰ヲオクリ、懈怠ニシテ生涯ヲスコスヘキヤ
「安心相違之覚書」ではこのほか、良如上人が西吟の説く自性一心の理は仏教の根本となる考えであるとしていること、学寮で学問の進度に応じ階位を定めていることを批判しています。「破安心相違覚書条条」では、このうち自性一心ということについて、自性一心という語を使っているにしても、それはこの身にその自性を観ずるということを勧めるものではなく、仏教の教え全体の理解のために使われるものであり、真宗でも聖道門仏教の行が難行であることを語る上で使われるものであるとします。学寮での階位については、上下の階位は所化が上の階位を目指し学問するので学業の向上に役立つものであり、そのために設けたものだとします。准秀上人は学寮で階位を定めていることを賢善精進の相を示すものとして批判しますが、これには、そうした批判をするのは放逸無慚の立場にあるからだとして反論を述べています。
「安心相違之覚書」では『私観子』に名号に功徳がないといった内容のことが書かれているとして批判が加えられていますが、これに対しては、『私観子』は西吟の門弟の書いたものであり、真宗の安心を説く書でもないとして、『私観子』を取り上げること自体が的はずれなことだとします。
「安心相違之覚書」では箇条ごとに親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書の一文を引いて良如上人への批判を述べていきます。良如上人の意見が相承されてきた教えと相違するものだということを示すためです。これに対して、「破安心相違之覚書条条」でも親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書の一文を引きながら反論を述べていきます。西本願寺の教えは相承の教えに相違するものなどではないということを示すためです。
右、段々ノ難条、カツテ祖意ヲウカヽハス、宗義ニクラキカユヘナリ
「破安心相違之覚書条条」は「安心相違之覚書」での四箇条の批判は教えの理解が不足しているためになされたものだといい、逆に准秀上人こそ教えが分かっていないのだとして反論を述べていきます。
(熊野恒陽 記)