【二百二十】承応の鬩牆 その二十九 たび重なる調停

2020.04.24

   准秀上人の著わした「安心相違之覚書」に対し、西本願寺は良如上人の名で「破安心相違之覚書条条」を著わして反論を述べましたが、准秀上人の「安心相違之覚書」は西本願寺に刺激を与えるものでした。西本願寺は承応三年(一六五四)の七月の初め、江戸幕府に興正寺のことを訴えています。幕府は訴えを正式に受理することはありませんでしたが、幕府の配下にある京都所司代、板倉重宗は良如上人と准秀上人の対立の深まりに、実力者を介して両者の争いの調停をはかろうとしました。公家の九条幸家、二条康道の二人が調停に乗り出してきたのにはこうした背景があったのだと思われます。二人は七月の中旬から調停に乗り出しますが、八月の初め、その九条幸家、二条康道、それに京都所司代の板倉重宗たちに送付されたのが「安心相違之覚書」です。争いの原因は西本願寺の側にあるのだというのが准秀上人の主張です。

 

   「安心相違之覚書」が送付された後の八月十八日、西本願寺は幕府の寺社奉行に准秀上人の非を訴えた口上書を提出しています。「安心相違之覚書」の送付の直後に口上書が提出されているというのは、西本願寺はそれだけ「安心相違之覚書」に強い刺激を受けたということです。この後、九月十六日に西本願寺は「破安心相違之覚書条条」を九条幸家、二条康道のもとに届けます。

 

   実力者による争いの調停の試みは八月十八日に西本願寺が幕府に口上書を提出した以後にも続きます。八月二十四日、禁中作事奉行の永井尚政が西本願寺を訪れ、良如上人と面談しています。尚政は山城国の淀藩の藩主で、板倉重宗とも親しい関係にありました。尚政は良如上人に准秀上人と和解するように説得にあたりましたが、説得は受け入れられませんでした。

 

   学寮御壊被成候儀、御門跡様無同心、不相調、御帰候也(『承応鬩牆記』)

 

   学寮を取り壊すということに良如上人が同心しなかったので、調停は調わず、尚政は帰ったとあります。学寮を取り壊すというのは、かねて准秀上人が要求していたものです。准秀上人は学寮を取り壊すなら、京都に戻るといっていました。学寮は良如上人にとっては大事なものです。学寮を取り壊すということは良如上人にはのむことのできない条件でした。これ以前に九条幸家、二条康道が調停にあたった際にも、良如上人はこの学寮を取り壊すという条件に難色を示したため、調停は調いませんでした。

 

   その後、九月にはあらためて九条幸道が調停にあたっていますが、その時もこの学寮を取り壊すということで話が進まなくなっています。九月には幸家以外にも有力者たちが調停にあたりましたが、いずれも学寮を取り壊すという条件のため不調に終わっています。

 

   十一月中旬、寺社奉行の松平勝隆が江戸幕府の使者として京都御所に派遣されてきました。寺社奉行は幕府の寺院、神社をめぐる行政の最高責任者です。この機会を利用し、板倉重宗、永井尚政は松平勝隆に依頼し、良如上人と准秀上人の争いの調停にあたってもらっています。勝家は、二度、西本願寺を訪れ、良如上人と面談しました。この時には、准秀上人も、一旦、京都へと帰ってきています。しかし、寺社奉行である勝隆の説得にもかかわらず、良如上人は和解案を受け入れることはありませんでした。勝隆もまた学寮の取り壊しを条件に准秀上人に京都の興正寺に戻ってもらうということを提案しました。良如上人は勝隆に、学寮を取り壊したということになれば、この度の月感と西吟の争論に端を発した興正寺と西本願寺の争いについては西本願寺の側にすべての非があったということになってしまう、といいました。学寮を取り壊すということは非を認めることになるというのです。良如上人は学寮を大切にしていましたが、こうしたことからも学寮を取り壊すということを頑なに拒絶したのです。

 

   良如上人と准秀上人の争いの調停にあたった九条幸家、二条康道、永井尚政、松平勝隆は、皆、学寮を取り壊すことを准秀上人が京都に戻ることの条件としてあげています。学寮の取り壊しは准秀上人が要求したものですが、調停にあたった実力者たちが揃ってこれを条件としてあげたのは、調停を背後から進めていた板倉重宗の意向を受けてのものと思われます。重宗は学寮を取り壊すことを妥当なこととみていたのです。これは調停にあたった九条幸家たちにしても同じ意見であったのだと思います。学寮を取り壊すという准秀上人の要求は、度を越した要求なのではなく、十分に納得のいく要求だったのです。

 

(熊野恒陽   記)

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