【二十三】「善知識」 ~往生を得ることは知識の力なり~
2019.08.26
了源上人は教えの相承を示す血脈ということを重視しましたが、血脈とともに、上人が重視したのが善知識の役割で、著述のなかでも、しばしば善知識について触れ、その役割の大きさを述べています。
善知識とは、教えを教示する師のことで、単に知識ということもあります。仏教では、どのようなものであれ、仏の道にみちびくものはすべて善知識であると説くことから、善知識との語の用いられ方はひろく、仏や菩薩を善知識といったり、朋友を善知識といったりもしますが、普通、真宗では師のことを善知識といっており、了源上人も師のことを指して善知識と呼んでいます。善知識に対しては、悪知識とのいい方もあり、誤った道にみちびくものを悪知識といいます。
了源上人の善知識についてのとらえ方は、とにかく善知識は敬われなければならないとするもので、善知識の存在の大きさを説いて、往生が定まるのも善知識の力によるものだともいっています。
当流ノ一義ニオヒテハ、知識ニアヒテ仏法ヲキヽ、一念ノ信心ヲオコストキ、往生スナハチサタマルトナラフ…信心サタマルトキ、往生マタサタマルカユヘニ、往生ヲウルコトハ、知識ノチカラナリ(念仏相承血脈掟書)
当流では信心により往生が定まるとするが、信心は善知識に会い仏法を聞いたとき定まるのだから、往生が定まるのも善知識の力によるのだといっています。
こうした善知識のとらえ方は、いまの時代からみれば、いささか奇異な感じがします。実際、上人のこの主張から、了源上人には師を仏のごとくに尊崇する知識帰命の傾向があったとして、上人を批判的にみる意見も多く出されています。
しかし、上人が善知識を敬えといい、往生が定まるのは善知識の力によるといっているのは、血脈の相承を重んじ、血脈の相承をなくてはならないものとする考え方からなされたものであって、批判されるような知識帰命とは意味が違っています。血脈相承の考えでは、教えは必ず人を介して伝えられるもので、教えを相承するにしても教えをさずける師がいなければ相承もありえないとします。上人もそこから相承の師である善知識の役割を重視しているのであって、無条件に善知識を尊崇しろといっているのではありません。
師は血脈の相承によって教えを正しく伝えられた人であり、その師に従うことで自分にも正しい教えが伝えられるとするところから師が尊信されるわけで、師の尊信とはいっても、重点はあくまで血脈の相承ということにおかれています。往生が定まるという善知識の力というものも、その力とは善知識に伝えられた教えの力であり、教えが人を介してしか伝えられないがゆえに、それを善知識の力といっているにすぎません。
上人の主張が現代からみると奇異に感じられるのは、主張の根底にある血脈相承の考えがいまの真宗にはなく、血脈相承ということを抜きに上人の主張をみるからであり、奇異とする原因はむしろ現代のとらえ方の側にあります。上人の主張を知識帰命と結びつける意見にしても、結局は血脈相承についての理解を欠いた意見だといえるでしょう。
血脈相承を重んじるのは了源上人の時代の真宗では普通のことであり、血脈相承と善知識のことについても、存覚上人の著作に了源上人と同様の主張がみえています。
惣じて仏法修行の法をみるに、みな師資相承あり、なんぞ浄土の一家にをいて血脈なからんや。なかんづくに弥陀の本願をきくによりてすでに往生の信心をたくはふ。きくことをうるは知識の恩なり、なんぞ知識をあふがらざらん。これをあおがばむしろ血脈なからんや(破邪顕正鈔)
仏教諸宗にはみな師資相承があるのに、どうして浄土の教えにだけ血脈相承がないことがあろうか。弥陀の本願を聞くのは善知識の恩であり、その善知識を仰がないことなどあるはずもない。善知識を仰ぐのも血脈相承があるからであり、浄土の教えに血脈相承がないはずはない、と説かれています。真宗に血脈相承がないはずがないと明言されていますし、血脈相承との考えから善知識への尊信が説かれていたことも明確にうかがうことができます。存覚上人と了源上人とでは血脈相承のとらえ方に若干の違いはあるのですが、これによっても、了源上人の主張が血脈相承を重んじたもので、知識帰命を説くものでないことは明らかだといえるでしょう。
(熊野恒陽 記)