【二百二十四】承応の鬩牆 その三十三 井伊直孝による調停
2020.08.26
明暦元年(一六五五)七月五日の夜、幕府の老中は江戸城に井伊直孝を呼びます。老中たちは良如上人と准秀上人の争いをどうするかの話し合いをし、井伊直孝に依頼して、直孝に良如上人と准秀上人の間に入ってもらい、直孝に仲裁してもらうことで争いの解決をはかっていくということを決めました。その依頼のため、直孝を城に呼んだのです。争いの解決に向け、老中は具体的な行動を起こしたのです。登城した直孝に、老中は仲裁を依頼するにいたった事情を説明しました。
御老中被仰候ハ、本願寺、興正寺ノ出入ノ儀、当上様御若年ニ御座候得ハ、言上仕急度御批判モ難被成候、御家老衆為私御済候事モ、又如何ニ候間、掃部守殿御扱被成、先双方共上洛候様、可被成ノ旨、被仰渡候(『承応鬩牆記』)
掃部守とあるのが井伊直孝のことです。正しくは掃部頭とあるべきですが、掃部守となっています。老中は、良如上人と准秀上人の争いであるが、将軍はまだ若く、争いでの良如上人と准秀上人の主張についてはどちらが正しいのかを判断するのも難しいであろうし、そうかといってわれわれ老中だけで裁くというのもどうかと思うので、貴殿に両者の取りなしの扱いをしてもらって、良如上人、准秀上人の二人にも早く江戸から京都に戻れるようになってもらいたい、と述べたとあります。将軍の判断を仰ぐこともできず、老中だけでも決められないので、直孝に取りなしを依頼するのだというのです。この時の将軍は第四代目の将軍、徳川家綱です。若年とありますが、当時、家綱は十五歳です。判断ができないという年齢ではありません。若年であるというのはあくまでいい訳です。要は、将軍、老中を巻き込むような大事にはしたくないのです。
これに対しては直孝もいろいろな理由をあげ、依頼を拒否していきます。しかし、老中が、受諾してもらわなくては、良如上人、准秀上人はいつまでも江戸にいなくてはならないことになるので、是非とも取りなしをしてもらいたいと懇願したことから、直孝もついに依頼を受け入れました。
左候者、随分肝煎可申由ニテ、御城ヨリ御帰候由候(『承応鬩牆記』)
引き受けたからには、出来る限りのことはするといって、直孝は江戸城から自邸に帰りました。
老中は井伊直孝に調停役を依頼しましたが、老中が直孝に調停を依頼したのには理由がありました。幕府の関係者のなか、良如上人がもっとも親しくしていたのがこの直孝でした。井伊直孝は近江国の彦根藩の藩主です。井伊家は譜代大名のなかでは筆頭に位置づけられる家です。彦根藩は石高三十万石の大藩で、譜代大名の藩ではもっとも大きな藩でした。直孝は彦根藩の藩主ですが、藩主といっても、直孝が日常を過ごしていたのは彦根ではなく、江戸です。江戸に居住し、幕府の重臣として幕府の政務にたずさわっていました。直孝は幕府のさまざまな要職を歴任しています。この時、直孝は六十六歳です。いうなれば幕府の重鎮です。
良如上人は直孝と親交があり、実力者である直孝を頼ってもいました。この良如上人と直孝の関係は、良如上人の父の准如上人と直孝の父の井伊直政との関係を受け継いだものです。准如上人と井伊直政は親しい関係にあったのです。准如上人は東本願寺を建立した教如上人の弟で、本願寺が東西に分かれた時の西本願寺の住持です。東本願寺の建立にあたっては、教如上人は徳川家康の後援を得、家康の力を背景に東本願寺を建立します。家康は教如上人を厚遇しましたが、逆に准如上人の方は冷遇しました。東西に分かれる以前の本願寺の住持であった教如上人を隠居させ、准如上人を本願寺の住持としたのは豊臣秀吉です。准如上人は徳川方と敵対する豊臣方と親しいという関係にありました。権力を握った家康に冷遇されることで准如上人は苦しみましたが、この苦境を救ったのが井伊直政だったようです。直政は准如上人の家康への取り次ぎをし、家康と准如上人との関係を取り持ったのだとみられます。こうして准如上人と直政との親交が始まり、それを受け継いで良如上人と直孝も親しい関係になったのです。江戸で准秀上人のことを訴えることになった時、良如上人がもっとも頼りにしたのは直孝であり、五月六日に江戸に着いた良如上人は五月十六日には直孝に准秀上人の非を述べた口上書を送っています。直孝に協力を得た上で幕府に訴えようとしているのです。直孝が良如上人と親しく、訴えの内容も知っていたため老中は直孝に調停を依頼したのです。
(熊野恒陽 記)