【二百二十五】承応の鬩牆 その三十四 内済による解決へ
2020.09.25
老中は良如上人と准秀上人の争いの調停を井伊直孝に依頼しました。良如上人と直孝が親しく、良如上人が直孝を頼りとしていたという関係にあったことから老中は直孝に調停を依頼しましたが、老中が直孝に調停を依頼したのにはもう一つ理由がありました。
老中は明暦元年(一六五五)七月五日の夜、直孝に調停を依頼しますが、それに先だって、大老の酒井忠勝は良如上人に意見の申し入れをしています。忠勝は良如上人と准秀上人の争いの解決のため、良如上人に学寮を取り壊すように申し入れました。前年の承応三年(一六五四)以来、京都では公家や武家の実力者たちがたびたび良如上人に准秀上人との和解に向けた説得をしましたが、その際、実力者たちが准秀上人に天満から京都に戻ってきてもらう条件として良如上人に示したのが学寮を取り壊すというものでした。良如上人は、その都度、取り壊しを拒絶しましたが、良如上人はこの忠勝からの申し入れに対しても、やはり拒絶をしています。大老からの申し入れにもかかわらず、拒絶しているのです。この対応に老中たちは良如上人への説得は容易ではないと感じたようです。良如上人への説得は難しく、説得することができるのは良如上人の側が頼りとしている直孝しかいないのではないか、というのが老中たちの実感だったのだと思います。面倒なことになることなく、円滑に争いの解決をはかることができるようにということからも老中は直孝に調停を依頼したのです。
こうして老中は直孝に調停を依頼しましたが、依頼の際、老中は良如上人と准秀上人の争いについては将軍の判断を仰ぐこともできず、われわれ老中だけで裁くのもどうかと思うのでといって直孝に調停を依頼しています。幕府が直接に関与することはないということであり、全てを直孝の裁量に任せるということです。争いは幕府が公に裁くのではなく、直孝個人が調停するという方法で解決されることになったのです。
江戸時代には、争いがあった時、奉行所や代官所などで正式に争いを裁くのではなく、扱人(あつかいにん)といわれる仲裁者が、争う両者の間に入り、両者の意見を調整し、調停をはかるということがひろく行なわれていました。これを内済(ないさい)といいます。扱人には町年寄や村役人、それに僧侶などがなりました。土地の境界争いや用水の利用をめぐる水争いは原則的に内済で解決されます。表沙汰にせずに内内に解決していくのです。この内済での争いの解決は幕府が推奨したものです。争いを奉行所などに持ち込んで解決するのではなく、内済で解決できるものは内済で解決するというのが幕府の基本方針でした。良如上人と准秀上人の争いの解決方法はまさにこの内済です。直孝は扱人です。良如上人と准秀上人の争いは、幕府の基本方針に従って、表沙汰にすることなく、扱人である直孝により内内に解決されていくことになったのでした。
直孝は調停の依頼を受諾する際、引き受けたからには出来る限りのことはするといいましたが、その言葉の通り、受諾ののち直孝はすぐに動き出します。依頼の受諾は七月五日の夜のことですが、直孝は翌七月六日の朝には良如上人のもとを訪れています。良如上人が宿所としていたのは浅草御堂といわれた当時の西本願寺の江戸御坊です。浅草御堂といっても、この御坊は江戸の浅草にあったのではなく、江戸時代の五街道の起点となる日本橋の近くにありました。日本橋は現在の日本橋川に架かる橋ですが、この橋の近くに神田川に架かる浅草橋という橋があります。五街道の奥州街道はこの浅草橋を通りました。浅草橋が防衛上の重要な橋であるということで、江戸時代にはこの橋の南詰に江戸城を守るための城門が設けられていました。神田川を渡り南詰の城門を通った先に江戸城があるという位置関係になります。この城門を浅草橋門といいました。浅草見附(みつけ)といわれることもあります。御坊はこの浅草橋門より江戸城寄り、つまりは門の内側にあるということで浅草御堂といわれました。浅草御堂はこの後、明暦三年(一六五七)の明暦の大火により焼失します。焼失後、幕府は西本願寺にもとの地での御坊の再建を許さず、替わりに八丁堀沖の海を与えました。この海を埋め立てて建てられたのが築地御坊です。埋め立てで地を築いたことから築地といいます。
直孝が良如上人のもとを訪れたことにより、良如上人と准秀上人の争いの解決に向けた交渉は一気に進展していきます。直孝の説得によって、良如上人は学寮を取り壊すことに同意したのです。
(熊野恒陽記)