【二百二十七】承応の鬩牆 その三十六 実際に学寮を取り壊す
2020.11.25
良如上人は井伊直孝との面談で、学寮を取り壊すことに同意しました。この同意をうけ、直孝はすぐに良如上人に対して、学寮を早く取り壊すようにとの催促を始めます。面談が行なわれたのは明暦元年(一六五五)の七月六日です。直孝は翌七月七日に一刻も早く学寮の取り壊しをするようにと綴った書状を良如上人の家臣に送っています。
同意したといっても、良如上人は本心では同意はしたくありませんでした。良如上人はいくつものいい訳を述べ、早急に学寮を取り壊すということには従おうとしませんでした。良如上人は学寮を取り壊すことは末代までの恥辱であり、世間や門下が自分を不甲斐なく思うといったことや、准秀上人の処分も決まらないうちに学寮だけ先に取り壊すなら門下の坊主たちが混乱することになるといったことを述べ、反対に早急に取り壊さなければならない理由があるのならそれを教えてほしいとも述べました。とにかく学寮を取り壊したくはなかったのです。そのための抵抗でした。しかし、いつまでも抵抗し続けるということもできません。良如上人もついに意を決します。七月十二日、良如上人は家臣の上原数馬を江戸から京都へと派遣します。数馬は学寮を取り壊すとの良如上人の意向を京都の西本願寺関係者に知らせるために派遣されました。いよいよ学寮を取り壊すことになったのです。
数馬が京都に着いたのは七月十八日の夕方です。数馬の到着後、西本願寺ではまず学寮の取り壊しの準備が始まりました。学寮には所化が六十人ほど住んでおり、すぐに取り壊すことはできなかったのです。十八日の夜から所化たちは学寮の道具や自分たちの荷物を運び出しました。学寮の本格的な取り壊しは十九日から始まります。十九日には全ての畳を上げ、戸、障子、建具を外し、棚などを下ろしました。二十日は早朝から建造物の解体に取りかかり、最初に学寮の中央に建つ講堂が打ち壊されました。次いで北、南の所化の寮が取り壊されました。二棟の寮の全てが取り壊されたのは二十二日のことです。二十三日には東側の寮が取り壊されました。そして、二十四日の晩に門が取り払われ、学寮は完全に取り壊されました。人足四十人、大工十人ほどで作業が進められました。解体後、跡地の東側と北側には葦で仕切りの垣が設けられました。
学寮を取り壊すにあたって、上原数馬は七月十九日に京都の坊主衆、二十日、二十一日には京都の七組の講衆を西本願寺に呼び寄せています。学寮を取り壊す理由を説明するためです。良如上人は学寮を取り壊すとなると世間の評判も悪くなるであろうと心配していました。そうならないように数馬に取り壊す事情を説明するよう頼んでいたのでした。
掃部殿今度御扱ニ付、学寮ノ儀ハ、新法ナル故、先公儀ヨリ、御崩可有候由、被仰付候、興正寺出入ノ儀ニ付テ、御頽候事ニハ無之トノ申渡、各ヘ被申触候(『承応鬩牆記』)
数馬は、良如上人と准秀上人の争いは井伊直孝殿が調停することになり、学寮の建立は幕府に届けずになされた新儀の行ないなので、公儀よりまず学寮を取り壊すよう命令されたから学寮を取り壊すのであって、興正寺との争いから壊すものではないということを坊主衆、講衆に説明しました。学寮の取り壊しを最初にいい出したのは准秀上人です。良如上人は、学寮を取り壊すということは門下の准秀上人に屈したことになり、自身の威信が失われると思っていました。そこで学寮の取り壊しは興正寺とは関係ないのだということを説く必要があったのです。江戸時代の社会は人に上下の差をつける身分制の社会です。身分の高い人間ほど体面や外聞ということに気を遣い、威信を保つことにつとめました。良如上人が気にしたのも外聞であり、保とうとしたのは威信でした。現実に学寮が取り壊されている以上、いくらこれは興正寺とは関係がないことだといったところで、いい繕いにすぎないように思われますが、体面を保つということから、そういわなければならなかったのです。
数馬はこの後、七月二十三日に江戸に戻るため京都を出立しますが、その際、年配の西本願寺の家臣二人を伴い江戸に向かっています。良如上人が京都から江戸に従えていったのはいずれも若い家臣ばかりでした。若い家臣ばかりでは重々しさが欠けるということで、数馬は年配の家臣を連れていったのです。二人はそれだけの理由で江戸に向かったのでした。これもまた体裁を取り繕うものだといえます。
(熊野恒陽 記)