【二百二十八】承応の鬩牆 その三十七 松平直政を介した交渉

2020.12.25

   良如上人は学寮を取り壊すことに同意し、京都の西本願寺関係者に学寮を取り壊すことの指示を与えるため家臣の上原数馬を京都に派遣します。数馬が江戸を出立したのは明暦元年(一六五五)七月十二日のことです。実際に学寮の取り壊しが始まるのは七月十九日のことですが、数馬が京都に派遣されたことで、学寮が取り壊されることは間違いのないことになりました。

 

   これをうけ、井伊直孝は今度は准秀上人の処分についての検討を始めました。学寮を取り壊すということは、准秀上人と良如上人の争いに際し、当初は天満から京都へ戻る条件として准秀上人が主張し出したものです。准秀上人は良如上人を困惑させようとして、良如上人が大事にしていた学寮の取り壊しを主張しました。准秀上人にしてみても、良如上人が学寮を取り壊すということはないであろうと考えていたのだと思います。その後、争いは西本願寺が興正寺を江戸幕府に訴えたため、裁定が幕府のもとへと持ち込まれ、幕府の意向のもと、井伊直孝を扱人とした内済での解決が図られることになります。西本願寺は興正寺が一派の本寺であるかのような振る舞いをしたことを新儀の行ないだとして訴えましたが、興正寺もまた学寮の建立を新儀の行ないだとして訴えました。この学寮の建立が新儀の行ないだとの訴えが認められ、学寮は取り壊されることになったのです。学寮を取り壊すということは良如上人を大いに悲嘆させるものです。こうした苦しみを与えることで、准秀上人がいだいていた良如上人や西本願寺の家臣たちへの不満も薄らいだことは確かです。学寮を取り壊すとの処分は准秀上人には納得のいくものでした。しかし、学寮の建立が新儀の行ないなら、興正寺が一派の本寺であるかのような振るい舞いをしたのも新儀の行ないです。新儀の行ないをしたことに対する処分として学寮を取り壊す以上、准秀上人も興正寺を一派の本寺であるかのように振る舞ったことに対する処罰を受けなければなりません。

 

   准秀上人を処罰するといっても、直孝が一方的に処罰の内容を決めることはできません。直孝は良如上人と准秀上人との争いの調停をする立場にあるのであって、上から処罰をいい渡す立場にあるのではないのです。良如上人に対し、交渉を重ねて学寮を取り壊すことを受け入れさせたように、准秀上人に対しても、納得の上、処罰を受け入れてもらわなくてはならないのです。直孝は准秀上人の処分をどうするかで准秀上人自身と交渉することになりますが、この交渉にあたって、直孝は松平直政を間に立てて交渉を進めていきました。松平直政は出雲国の松江藩の藩主です。直政には喜佐姫という姉がいましたが、喜佐姫は周防国の長州藩の藩主、毛利秀就の妻でした。准秀上人の母、妙尊尼は長州藩の藩祖である毛利輝元の養女として准秀上人の父、准尊上人と結婚しましたが、毛利輝元の長男がこの秀就です。この時には毛利秀就はすでに没しており、息男の毛利綱広が藩主となっていましたが、綱広がまだ若かったことから、母の弟である松平直政が綱広の後見役をつとめていました。松平直政と准秀上人とは毛利氏を介し、深いつながりがありました。

 

   井伊直孝は七月十一日の夜、松平直政を自邸に招き、直政と面談をしています。学寮を取り壊すことを伝える使者が派遣される前日のことであり、学寮の取り壊しはほぼ決定的になっていました。それをうけ、直孝は直政に准秀上人との交渉への協力を依頼するとともに、准秀上人の処分をどうするかといったことを話し合ったのだとみられます。直孝と直政は翌十二日にも面談をしています。直孝と直政とが連絡する際には、石谷貞清が互いの意見を伝えていました。石谷貞清は幕府の旗本で、この時には江戸の北町奉行でした。意見を伝えるだけではなく、貞清自身も意見を求められたり、話し合いに参加したりしていたようです。

 

   井伊直孝と准秀上人との交渉は松平直政を間に立てたこともあって、直孝の望んだ方へと進んでいきました。直政は准秀上人に理解を求めるため、七月十四日、准秀上人のもとに使者を遣わしますが、使者の来訪をうけた准秀上人は、直政に、直孝殿がわざわざ意見を示されるのであればそれに従うし、今後も直孝殿のいう通りにする、と書いた口上書を提出しています。この口上書は十四日のうちに直政から直孝のもとへと届けられました。直孝は交渉をどう進めるかと思案していたのに、准秀上人の側がすべてを任せるといってきたのです。直孝はこれに安堵し、十五日の夕方、直政とともに准秀上人のもとを訪れました。

 

   (熊野恒陽 記)

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