【二十四】「光明本尊 その一」 ~光明本尊の構成~

2019.08.26

 佛光寺の教化の特徴は、絵系図にみられるように、具体的なかたちを指し示して教えを解りやすく説いたところにありますが、その一環として佛光寺では光明本尊(こうみょうほんぞん)といわれる絵画もさかんに用いられていました。光明本尊そのものは、古い時代の真宗で一般に用いられていたものであり、何も佛光寺だけに限ったものではありませんが、もっともよく用いていたのが佛光寺で、現在、のこされているものも佛光寺系のものが圧倒的に多くのこされています。

 

 光明本尊とは、名号を中心にして、その周りに如来像や、印度、中国、日本の先徳像などを描いたもので、通常は一幅の掛け軸に仕立てられています。描かれている人物が多い分、寸法も大きく、大体、畳一枚ほどの大きさがあります。

 

 光明本尊という名称は、のちの時代に付けられた名称で、当初は単に光明本(こうみょうほん)と呼んでいたようですが、これを光明本と呼んだのは、光明を強調する絵の様相にもとづいたものとみられます。光明本尊の特徴は中心の名号から光明が四方に放たれ、描かれた人物を光明が照らしているというところにありますが、この特徴から光明本の名が付けられていたのでしょう。

 

 真宗で光明本尊が用いられはじめたのは存外に古く、親鸞聖人の在世中にすでにその原型ができあがっていました。現在、のこされている最古の光明本尊は、愛知県の妙源寺(みょうげんじ)という高田派の寺院に伝えられたものですが、この光明本尊には興正寺の二世とされる真仏上人の筆跡がのこされています。真仏上人は親鸞聖人よりもはやくに没しているので、このことから親鸞聖人の在世中、すでに光明本尊があったことが明らかになっています。妙源寺の光明本尊は、通常の一幅のものとは違い、三幅に分けて描いていますが、全体の構成は通常の光明本尊と同じで、光明本尊の原型か、それに近いものといわれています。

 

 光明本尊がどのような経緯で作成されたのかは判っていませんが、一説によると法然上人の門下で使用された摂取不捨曼荼羅(せっしゅふしゃまんだら)と関係があるといわれます。法然上人の門下で摂取不捨曼荼羅というものが用いられていたことは諸書にみえており、法然上人を糾弾した有名な「興福寺奏状(こうふくじそうじょう)」のなかにも採りあげられています。摂取不捨曼荼羅は、念仏の徒にだけ光明が照らし、聖道門の者には光明が照らさないという絵であったと伝えられていますが、ただ、肝心の絵の実物がのこされておらず、これが本当に光明本尊と関係するものなのかは、はっきりとしていません。

 

 光明本尊の形式については、すべての光明本尊は名号と多数の人物像から成り立っていますが、それにもいくつか種類があって、中心の名号が十字名号のものや九字名号のもの、あるいは六字や八字のものもあります。描かれる人物も光明本尊の一つひとつに違いがあり、多くの人物を描くものや、逆に少しの人物しか描かれていないものもあります。それぞれの作成にあたっては、おおよその構成だけを踏襲して、製作者ごとに工夫を加えたということなのでしょう。

 

 佛光寺で用いられた光明本尊は、おおむね中心の名号が九字名号のもので、それに加えて向かって左に六字名号、右に十字名号を添えるのを基本としています。

 

 絵の方は、三つの名号に挟まれるかたちで左に阿弥陀如来、右に釈迦如来像を描き、左上方には下から印度の龍樹、世親像と勢至菩薩像、続いて中国の曇鸞、道綽、善導像などが描かれ、右上方には下から聖徳太子、源信、源空、親鸞像などが描かれます。光明本尊によっては、このほかにも、真仏、源海、了海、誓海、明光、了源像や、それ以降の製作者の血脈上の師たちを描いたものもあります。こうしてみてみると、全体の構図としては、あたかも現在の真宗で用いられている各影像類を一幅の掛け軸のなかに納めたかたちとなっています。現在と違っているのは、釈迦如来像を描くことと、中国の先徳像で、光明本尊には通常の曇鸞、道綽、善導像に加え、菩提流支(ぼだいるし)や懐感(えかん)、少康(しょうこう)、法照(ほっしょう)といった先徳の像も描かれています。これらは浄土宗の影響といわれていて、たとえば浄土宗の京都二尊院(きょうとにそんいん)が釈迦と阿弥陀の二尊を並べて本尊としているように、浄土宗には釈迦如来像と阿弥陀如来像を並べる形式がみられますし、中国の先徳にしても、それらは法然上人の『選択集』などに中国浄土教の師として名が挙げられる人物です。古い時代の真宗は浄土宗との区別があいまいだったので、こうしたことがあっても特に不思議はありません。


(熊野恒陽 記)

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