【二百三十七】承応の鬩牆 その四十六 越後で書かれたご消息

2021.09.25

 准秀上人は越後国の今町に到着後、門下に越後に逼塞することを知らせるご消息を認めています。准秀上人の今町への到着は明暦元年(一六五五)八月八日です。ご消息は八月十七日に認められました。ご消息は内容から前半部と後半部に分けられます。その前半の部分に越後に逼塞するに至った経緯が記されています。

 

   態染筆候、仍内々の法義の出入に付、今度、於江戸に一流相伝の正意、粗申立之所ニ、世上にも大略被相心得之間、本望之至に覚候、就其、予か一身にをひては、裏書式之事、公儀江不相届所、如何之旨に依て、去方之意見として、しはらく越後之国国府遍江令下向候、是則、且者祖師聖人之古風にかなひ、且者教法流布之因縁たるへき歟之間、生前之大慶、何事か是にしかん哉(「興正寺文書」)

 

 まず、西本願寺との法義の争いがあったので、江戸において親鸞聖人からの相伝を受けた正しい教えについて、概略を申し述べたところ、ひろく世上においても、私、准秀の述べたことを納得してもらい、満足しているとあります。ついで、しかしながら、本尊や親鸞聖人の御影などに裏書を書いて下付したことは、幕府に届けずにしてしまった新儀の行ないであったので、その償いのため、さる方の意見に従って、越後国の国府のあたりに下ることにしたと書かれています。このさる方というのは、井伊直孝のことです。法義の争いであっても、自身に法義の解釈の誤りがあったのではなく、あくまで本尊などに裏書を書いて下付したことが新儀の行ないであるので、逼塞するのだというのがここでの主張です。准秀上人は、教えについて自身の申し述べたことは世上においても了承されているといっています。ご消息には、越後に下るのは親鸞聖人が越後に流罪となったことと重なることであり、こうして下ることが越後に教法が流布する因ともなるものなので、これもまた私、准秀にとっては、生前のこの上もない喜びであるということも書かれています。

 

 これに続く後半の部分では正しい教えに帰すべきことを勧める法語が記されています。

 

   就其、いよゝゝ同行会合候て、開山聖人御相伝之安心のをもむき、聞たかへられ候ハぬやうに相嗜、他力の信心決定の上にハ、偏に凡夫自力のはからひをやめて、仏恩報謝之称名、油断有ましく候、縦年月しハゝゝ相隔るといふとも、真実の信心一味の上にハ、一蓮之対面うたかひ有へからす候、尚下間式部卿可申候也、穴賢々々

   八月十七日 准秀(花押)

   天満御堂 講衆中 

        惣門徒衆中

 

 門徒は同行たちとともに法座に集うべきであるが、そこでの聴聞の際は、親鸞聖人から相伝された正しい教えを聞き違えないようにしなければならないとあり、続けて、正しい教えを聞いて他力の信心が決定した上は、凡夫の自力のはからいをやめ、仏恩報謝の称名に励むべきだとあります。そして、皆が同じ真実の信心を得たのであれば、会える時はそれぞれ違っていても、必ず浄土の蓮の上で会うことができるともあります。この後半部分でも親鸞聖人から相伝された正しい教えということが記されています。准秀上人は、西本願寺と興正寺の争いに際して、西本願寺に相伝された教えは途絶えてしまい、親鸞聖人の教えを相伝するのは興正寺だといっていました。正しい教えを聞き違ってはならないとは、西本願寺の誤った教えを聞いてはならないということです。凡夫自力のはからいをやめろともありますが、凡夫自力のはからいとは西吟の教えの解釈を凡夫の自力のはからいといっているのです。正しい教えは興正寺に相伝され、西本願寺で説かれるのは凡夫自力のはらいに過ぎない教えだというのが准秀上人の主張です。逼塞したといっても、准秀上人は西本願寺への批判をやめたわけではないのでした。

 

 このご消息は天満の門下に宛てられたものですが、これと同じ内容のご消息は、摂津国の門下へ一通、摂津国中嶋と河内国の門下へ一通、讃岐国と阿波国の門下へ一通、堺の門下へ一通と、計、六通、書かれています。ご消息には下間式部卿が詳細を申し述べるとありますが、これらのご消息は興正寺の家臣の下間式部卿重玄によって各地に届けられました。重玄は准秀上人とともに江戸から越後に赴き、その後、京都へと戻ります。重玄が京都に着いたのは八月二十九日です。これらのご消息は九月になってから各地へと届けられました。

 

 (熊野恒陽 記)

 

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