【二百三十八】承応の鬩牆 その四十七 月感のことに触れたご消息

2021.10.26

   准秀上人は明暦元年(一六五五)の八月十七日付で六通のご消息を認めています。六通のご消息は同じ内容です。このご消息には越後に逼塞するに至った経緯とともに暗に西本願寺を批判した法語が記されていました。ご消息は天満の門下をはじめ、摂津国、河内国、但馬国、丹波国、讃岐国、阿波国、それに堺の門下に宛てて書かれたものです。越後に到着後、すぐに書かれたご消息です。ご消息の宛所となった地域の門下こそ、西本願寺と興正寺の争いに際し、天満にいた准秀上人を支えていた門下であったということができます。

 

   准秀上人はこの後、八月二十八日にもご消息を認めています。このご消息は肥後国の門下に宛てられたものです。肥後は月感の地元であり、月感と興正寺を強く支持していた地域です。肥後の門下たちは天満の准秀上人に銀子を届けるということもありました。准秀上人を支持した門下にご消息が下されるのなら、当然、肥後の門下にもご消息が下されなければなりません。

 

   八月十七日付のご消息の前半の部分には、江戸において親鸞聖人からの相伝を受けた正しい教えについて、概略を申し述べたところ、ひろく世上においても、私、准秀の述べたことを納得してもらい、満足しているが、本尊や親鸞聖人の御影などに裏書を書いて下付したことは新儀の行ないであったので、越後国に下ることになったとあり、ついで、こうして越後に下ることも、越後に流罪となった親鸞聖人と同じことで、生前の喜びだと記されています。肥後の門下に宛てられたご消息でも、ここまでは同一の文章が書かれています。しかし、肥後の門下宛てのご消息では、これに続く箇所の文が違っています。肥後の門下へのご消息には月感の逼塞のことを述べた文が記されているのです。

 

   猶又、月感事、師弟共に一所にも相ともなふへき所、別して雲州江被指下候、つらゝゝ是を思ふに、終にわ教法流布の因縁たるへき歟の間、なけき思へからさる者なり(「興正寺文書」)

 

   月感は、私、准秀と同じ場所に逼塞すべきではあるが、出雲国に逼塞することになったとあり、ついで、よくよく考えてみれば、こうして越後ではなく、出雲に行くことになったとしても、それが終には出雲の地での教法の流布する因ともなるのであって、嘆くことではないとあります。八月十七日付のご消息では、准秀上人自身が越後に逼塞することになったということを述べ、それが越後の地での教法の流布の因となると書かれていましたが、この肥後の門下に宛てられたご消息では、准秀上人自身の越後での逼塞が越後での教法の流布の因となるという文が削られて、月感が出雲に逼塞するということが述べられ、それが出雲での教法の流布の因となるということが書かれているのです。

 

   八月十七日付のご消息では後半の部分に法語が書かれていました。この肥後の門下に宛てたご消息でも後半の部分には法語が書かれています。

 

   是につけても、人間ハ老少不定の境ひなれは、片時もいそきて信心獲得あるへく候、就其、不珍候へとも、開山聖人御相伝、他力の安心といふは、なにのやうもなく、弥陀仏に向候て、後生たすけ給と頼所に、往生は治定そと心得て、此上にハ、仏恩報謝の称名、油断有間敷候、相かまへて、事珍敷、自力のはからひを指置て、たゝ仏智の不思議にまかせられ、真実の信心決定の上ハ、たとひ年月しはゝゝ隔るといふ共、一蓮の対面、更々うたかひ有へからさる者也、穴賢々々

    八月廿八日 准秀御判

         肥後国 惣坊主衆中

                   同門徒衆中

 

   まず、人は老いた者が先に死に若い者が後に死ぬというのではなく、誰がいつ死んでもおかしくない境遇にあるので、誰もが急いで信心を獲得すべきだと記されています。この箇所は八月十七日付のご消息にはないものです。これに続くのは、親鸞聖人から相伝された正しい教えに帰すべきであり、それとは異なる自力のはからいをやめるべきだということで、表現は違うものの、八月十七日付のご消息と同様のことが述べられています。ご消息の、こと珍しい自力のはからい、というのは西本願寺で説かれる教えのことをいっているのです。これも八月十七日付のご消息と同じです。

 

   このご消息は月感の寺である延寿寺の末寺の光楽寺の住持によって肥後へと届けられました。光楽寺の住持は月感とともに江戸におり、その後、越後でご消息を受け取って、肥後へと帰ったのでした。

 

   (熊野恒陽記)

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