【二百四十】承応の鬩牆 その四十九 誰が本尊や絵像を回収するのか
2021.12.25
良如上人が京都に戻ってから半年ほどを経た明暦二年(一六五六)三月二十六日、良如上人は井伊直孝に一つ書を送っています。一つ書には良如上人と准秀上人が争っていた際、天満にいた准秀上人が門下に下した木像の本尊や親鸞聖人の絵像などを門下から回収することになっているのに、いまだに回収されていないということが記されていました。良如上人は本尊や絵像は興正寺が回収し、興正寺がそれらを板倉重宗へと提出し、重宗がそれらを直孝殿に届けることになっているにもかかわらず、そうしたことがなされていないというのです。板倉重宗は前の京都所司代です。
良如上人の一つ書を受け取った直孝は、本尊や絵像の回収についての詳細を知るため、准秀上人に仕えていた下間重玄を江戸に呼びました。重玄はその後の閏四月の始めに江戸に到着しています。江戸で回収について問われた重玄は、直孝に対し、下付した本尊や絵像は興正寺が回収するのではなく、板倉重宗が回収し、重宗から直孝殿のもとに届けることになっているため、こちらもそのつもりで回収しなかったのだと答えました。重玄は、准秀上人は逼塞しており、興正寺も閉門という状況にあることから、興正寺が回収するのでなく、重宗が回収するのが妥当であるし、このことは前に直孝殿に申し上げたことであるとも答えています。
良如上人は興正寺が回収するとしているのに対し、重玄は重宗が回収するとしているのです。誰が回収するのかで、双方の受け止め方に違いがあったことになりますが、これは重玄のいっていることが正しいのです。重宗が回収するということは、これ以前の明暦元年(一六五五)七月二十日、准秀上人が直孝に提出した覚書にも書かれています。この覚書は、今後、学寮のことはとやくいわないということと、越後国に逼塞するということ、それに門下に下した本尊などを回収するということといった准秀上人自身が受ける処分の内容を三箇条にわたって書いた覚書です。覚書には下付した本尊や絵像などの記録を提出するので、直孝殿は重宗に命じて絵像などを回収してもらい、重宗からそれらを預かって下さるようにとあります。そして、下付の記録もすぐに重玄から直孝へと提出されました。
下間重玄の回答には、井伊直孝も自分に落ち度があったことを認めています。そして、その上で、改めて興正寺が回収するようにと要求してきました。直孝は良如上人と准秀上人の争いは表沙汰にすることなく、内済によって内内に解決されたのであるから、幕臣である板倉重宗が回収するとなると、内内での解決ということにならないと主張しました。さらに直孝は、准秀上人のためにも興正寺が回収すべきで、興正寺が回収しないのなら、それによって准秀上人に悪い影響が及ぶことになるともいいました。
重玄の立場では幕府の重臣である直孝に逆らうことなどできません。重玄は直孝の意向に従うことにしました。しかし、重玄には主人である准秀上人を差し置いて、自分で興正寺が回収するということを決めることもできないのです。重玄は直孝に、直孝殿からも准秀上人に興正寺で回収するように依頼してもらいたいということを伝えました。これをうけ直孝は准秀上人に宛て書状を認めました。重玄はこの書状を携えて、越後の准秀上人のもとへと向かったのです。
重玄が届けた直孝からの書状を読んだ准秀上人は、興正寺が回収することに同意し、その旨を記した書状を直孝へと送っています。この准秀上人の書状にも、回収については、去年、江戸で私、准秀と直孝殿で、板倉重宗が回収し、重宗から直孝殿に提出するということを申し合わせたはずだと述べられています。
准秀上人の了承を得た重玄は、准秀上人のもとで五日ほどを過ごしたのち、京都へと戻りました。重玄が京都に着いたのは五月五日のことです。翌六日、重玄は天満へと下りました。下付した本尊や絵像のうち、近国に下付したものを回収するためです。重玄は天満から諸方に触れを出して回収につとめました。ある程度の回収が進んだ、五月十六日、重玄は回収した本尊や絵像を京都へと運びました。京都に運ばれた本尊や絵像は五月十九日に牧野親成のもとへと届けられました。牧野親成はこの時の京都所司代です。牧野親成は板倉重宗の後任として京都所司代になりました。本尊や絵像は三棹の長持に入れられ届けられました。
親成のもとに届けられたのはまだ近国に下されたものだけです。山陽や九州といった遠国に下されたものはこののちに回収されることになります。
(熊野恒陽 記)