【二百四十一】承応の鬩牆 その五十 木仏、絵像などの回収

2022.01.25

   下間重玄は、良如上人と准秀上人が争っていた際に准秀上人が門下に下した木像の本尊や親鸞聖人の絵像などを回収し、明暦二年(一六五六)五月十九日、それらを京都所司代の牧野親成のもとに届けました。これらは近江国、大和国、摂津国、和泉国、播磨国といった近国の門下から回収したものです。この時に届けられたのは、親鸞聖人の絵像が十一幅、蓮如上人の絵像が二幅、木仏の本尊の裏書が五枚、座配の書出が二通、絵像の本尊が十幅、名号が三十一幅、五帖御文が一部、それに五帖御文の版木が六十枚でした。このうち木仏の本尊や親鸞聖人の絵像などは寺院や道場に下されたものですが、絵像の本尊や名号は寺院だけではなく、俗人の門徒にも下されていました。それらも回収されました。五帖御文の版木は天満興正寺に置いてあったものであり、下付したものではありません。

 

   重玄は五月五日に越後国の准秀上人のもとから京都へと戻り、翌六日、天満へと下って近国に下付された本尊や絵像の回収にあたりましたが、重玄は同時に山陽や九州といった遠国に下付されたものの回収をも進めていました。重玄は五月五日に京都に戻ると、回収することを知らせるため、興正寺の家臣を九州の豊後国、肥後国に派遣しています。山陽では長門国の萩に毛利家と関わりのある清光寺があり、そこに准秀上人の末の弟である良重師がいたことから、良重師に周防国、長門国に下されたものの回収を依頼しました。下付した絵像は越後国にもあり、これは越後にいた准秀上人の方で回収にあたりました。越後で絵像を下された寺は二箇寺で、この二箇寺は准秀上人の弟の蓮乗師が入寺した長岡の正覚寺の末寺です。興正寺と縁があるとはいえ、この二箇寺は興正寺の末寺ではありません。良如上人と准秀上人の争いに際し、准秀上人の側を支持したため、絵像を下してもらっているのです。

 

   こうして回収が進められるなか、重玄は六月十二日、それまで取り集めた絵像などを、一旦、親成のもとに届けました。この時に届けられたのは、親鸞聖人の絵像が一幅、蓮如上人の絵像が一幅、絵像の本尊が一幅、名号が一幅、座配の書出が八通です。これらは但馬国、阿波国、讃岐国の門下から回収したものです。

 

   その後、遠国に下された本尊や絵像も回収され、八月三日、重玄はそれらを親成のもとに届けました。この時に届けられたのは、親鸞聖人の絵像が十九幅、聖徳太子の絵像が三幅、七高僧の絵像が三幅、蓮如上人の絵像が五幅、木仏の本尊の裏書が七枚、座配の書出が十通、絵像の本尊が五十六幅、名号が九十七幅、御文が総数にして六十九帖です。これらはそれまで回収されなかった近国の門下の分に加え、越後国、周防国、長門国、豊後国、肥後国の門下から回収したものです。

 

   准秀上人が実際に下した本尊や絵像は、合計すると、親鸞聖人の絵像が三十一幅、聖徳太子の絵像が三幅、七高僧の絵像が三幅、蓮如上人の絵像が八幅、木仏の本尊の裏書が十二枚、絵像の本尊が六十八幅、名号が百三十六幅、御文が総数にして七十五帖です。これらのものが四十八の寺、道場、それに俗人の門徒に下されていました。これらの数は重玄が明暦元年(一六五五)の七月二十二日付で井伊直孝に提出した下付の記録の数と、幾分、違っていますが、明暦元年のものが訂正された結果、こうした数となったのです。このほか興正寺下での位階である座配については、四十一の寺に座配が許されています。このうち紙にその寺の座配を書いた書出が与えられたのが二十六の寺で、のこる十五の寺には書出を与えることなく座配を許していました。八月三日の段階で、回収から漏れたのは、絵像の本尊が一幅、名号が七幅、御文が一帖、座配の書出が二通となります。重玄は絵像の本尊の一幅、名号の七幅については下付した相手が分からないと井伊直孝に報告しています。座配の書出の二通については与えた寺が分かっており、これらは直に回収することができます。御文の一帖ものちに回収されます。こうして八月三日までに回収はほぼ完了したのでした。

 

   回収は順調に進んだことになりますが、木仏や絵像を下してもらったのは門下のなかでも、特に熱心に准秀上人を支持した門下たちです。興正寺に協力するのは当然で、興正寺が集めたからこそ順調に集めることができたのです。それに井伊直孝は重玄に、准秀上人が早く京都に戻れるようにするためにも、急いで回収すべきだと伝えていました。重玄はじめ門下の坊主たちも、早く准秀上人が京都に戻れるようにとの思いをいだいて、回収に協力したのでした。

 

   (熊野恒陽 記)

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