【二百四十二】承応の鬩牆 その五十一 井伊直孝が准秀上人の宥免に向けた行動を
2022.02.25
下間重玄は、良如上人と准秀上人が争った際、准秀上人が門下に下した本尊や絵像を回収し、京都所司代の牧野親成のもとに届けました。重玄は明暦二年(一六五六)の五月十九日と六月十二日、それに八月三日の三度にわたって回収した本尊や絵像を親成に届け、これによって回収はほぼ完了したのでした。
八月五日、下間重玄は井伊直孝に宛て、回収がほぼ完了したことを報告する書状を出していますが、そこには准秀上人の逼塞の宥免を懇願する文言も記されていました。
此上興門逼塞之儀も、何卒首尾能様、御思慮奉仰候(『浄土真宗異義相論』)
准秀上人の逼塞のことも、何卒、首尾よくいくようにご考慮を願いますとあります。この書状で重玄が宥免を願っているのも理由があってのことです。重玄が回収の作業を進めるなか、直孝は重玄に准秀上人が早く京都に戻れるようにするためにも、急いで回収すべきだと伝えていました。重玄はこの直孝のことばを回収が済めば、准秀上人は京都に戻れるのだという意味に受け止めたのです。そこで重玄は回収がほぼ完了したということを報告するとともに、准秀上人の逼塞の宥免についても言及しているのです。
直孝が重玄に准秀上人の帰洛のことをいったのは、回収を急がせるためだけではありませんでした。直孝はすでにどのようなかたちで准秀上人の逼塞を宥免し、帰洛させるかの考えをまとめていました。その考えにもとづいて、早く回収すれば、それだけ早く准秀上人が帰洛できるといったのです。直孝は准秀上人を翌明暦三年(一六五七)に帰洛させると考えていました。京都に戻るといっても、そのまま興正寺の住持の職にとどまるのではなく、准秀上人は隠居し、新門の良尊上人を興正寺の住持の職に就けるというのが直孝の考えでした。直孝がこう考えているにしても、直孝の独断でこのように決めるということはできません。直孝は良如上人准秀上人の争いの調停をしているのです。准秀上人の帰洛についても良如上人の同意が必要です。良如上人の同意を得るためには良如上人の意向に反するようなことはしてはならないのです。准秀上人が下した本尊や絵像の回収が行なわれていなかったことから、興正寺に回収させるようにと直孝に求めてきたのは良如上人です。早く回収するようにというのが良如上人の意向であり、それに従っていれば、准秀上人の帰洛についての同意も得やすくなるのです。ここから直孝は重玄に、准秀上人が早く京都に戻れるようにするためにも、急いで回収すべきだと伝えたのです。直孝は准秀上人の宥免の年を明暦三年としていますが、明暦三年としたのはこの年が江戸幕府の三代目の将軍である徳川家光の七回忌の年に当たっているからです。家光の七回忌に合わせて帰洛させるとして、准秀上人の帰洛を家光の七回忌と関わらせて説けば、良如上人も反対はできないであろうと直孝は考えたのでした。これ以前、直孝は江戸で准秀上人に越後での逼塞の期間は一年か二年のことだといっていました。明暦三年に帰洛するとなると、逼塞の期間は二年ということになります。直孝が准秀上人にいったのは本当のことで、確かに二年で逼塞を宥免するつもりだったのです。
重玄が回収をほぼ完了させたことと、准秀上人の宥免を懇願してきたことをうけ、直孝も准秀上人の宥免に向けた行動をはじめます。八月二十六日、直孝は准秀上人の宥免のことを述べた覚書を西本願寺に送りました。その覚書では、まず准秀上人が下した本尊や絵像の回収がほぼ完了したということが記されています。良如上人の要求には応えたということを強調しているのです。その上で、准秀上人の宥免のことが述べられ、准秀上人を宥免するが、准秀上人は隠居し、良尊上人が興正寺を継ぐということが提案されています。併せて閉門している各地の御坊も閉門を解き、出雲国に逼塞している月感も許すということも提案されています。この覚書では隠居後の准秀上人を天満興正寺に居住させるということも記されています。宥免の時期としては、明暦三年四月二十日が家光の七回忌の日に当たることから、それ以前に帰洛させるとあります。そうすれば、幕府への忠誠を示せるし、世間からとやかくいわれることもないので、宗門のためにもなるとも述べられています。あとは良如上人側の意見が書かれた返書を待つだけでしたが、返書はなかなか届きませんでした。良如上人は宥免には反対であったため、返書を出すのをわざと遅らせていたのです。
(熊野恒陽記)